◆2022年3月例会(第296回総合部会例会)
【目次】
日時:3月 5日(土 ) 15時~17時30分(予定)
会場:リモート開催を予定しています。
(数名程度なら会場参加も可能です。下記をご参照ください。)
発表者:近藤 弘美氏(東京農工大)
司会:米田 祐介氏 (東洋大学)
演題: 「人間の尊厳」と優生思想の関わり
――国家による強制と個人の自律性の観点から――
【要旨】
生殖補助医療において「新型出生前診断(NIPT)」「遺伝子診断(PGD)」「遺伝子着床前スクリーニング検査(PGS)」など、「命の選別」を可能とする診断技術が日本でも検査対象者を拡大しつつある。だが、「命の選別」は、これ以前より他の検査によって行われていたことは、障害者団体からの告発によって明らかにされている。
発表者は、これまで「人間の尊厳」を奪う国家による強制的な優生政策と個人の自律的選択による優生的行為の相違点について、優生保護法下における不妊手術と生殖補助医療における「出生前診断」を手がかりにさぐってきた。また、リベラル優生学が「命の選別」を正当化するのだろうかという疑問があった。この疑問に対して、日本の障害者団体と女性団体による出生前診断をめぐる議論の蓄積が示唆を与えてくれる。議論を再び読み解くことは、新たなる視点を得ることになるだろう。
【最近の業績】
「尊厳死」について平成26年9月『総合人間学会オンラインジャーナル』第8号
「殺すことと死ぬにまかせることの間-道徳的差異と対称性について-」平成26年3月
お茶の水女子大学『人間文化創成科学論叢』第16号
「優生法にみられる日本人の倫理観」平成25年3月お茶の水女子大学『比較日本学教育研
究センター研究年報』第9号
「リベラル優生学と他者危害の原則」平成24年8月お茶の水女子大学哲学会・哲学倫理学
研究会『倫理学研究』Vol.5
◆2022年1月例会(第295回総合部会例会)
【目次】
日時:1月 30日(日) 15時~17時30分(予定)
会場:リモート開催(4~5名程度会場開催が可能です。)
発表者:大鹿 勝之氏(東洋大学 東洋大学東洋学研究所客員研究員)
司会:長島 隆氏 (東洋大学)
演題:共感と行為の是認 ―ヒュームの議論における道徳的区別と一般的観点―
【要旨】
身体的・精神的苦境に陥っている者に共感し、その者を死なせる行為を是認する立場と、共感しつつも死なせる行為を否認する立場があると仮定して、両者の立場について、道徳的区別や一般的観点についてのヒューム(David Hume, 1711-1776)の議論から検討してみたい。
ヒュームは、『人間本性論』A Treatise of Human Natureにおいて、悪徳(vice)と徳(virtue)との相違を記すことができるのは、それらがもたらす何らかの印象ないしは感情によってであり、ある行為、感情、性格が有徳であり悪徳であるというのは、行為、感情、性格を眺めることが特定の種類の快や不快を引き起こすからであるという。また、自己の利益や友人たちの利益が関わらない場合、社会にとって善が快を与えるのは、共感によってであり、共感がすべての人為的な徳に対して払う尊重の源泉であるとする。
しかしながら、親しい者が苦境に陥った場合と、そうでない者が苦境に陥った場合とでは、共感を通じて生じてくる感情も異なるだろう。ヒュームは、各人が諸々の性格や人物を各人に特有の観点からみえるかたちで考察するだけなら、理にかなった語でともに会話することはおよそ不可能であるため、矛盾を防ぎ、物事についてより安定した判断に達するために、何らかの安定した、一般的観点を定め、現時点での位置がどのようなものであっても、思考のうちでは常にその観点に置くという。ヒュームによれば、非難や賞賛のあらゆる感情は、非難や賞賛を受けている人物に対する近さや隔たりといった位置に応じて変容するが、そのような感情をもって人物を評価すると社交や会話において感情に対する多くの矛盾を見いだし、位置が絶え間なく変化することから判断が不確実になることが見いだされるので、そのような大きな変容を許容することのない基準を探し求めることになる。
以上の議論は、ある行為を非難し賞賛する場合に、その行為者に対する親しさや、利害関係によって変容する感情に基づくのではなく、一般的観点を定めてそれに基づいて非難し賞賛するという、行為の是認・否認についての不偏性を説明するものだが、冒頭で仮定した二つの立場を考察した場合、ヒュームの議論に従えば、苦境に陥っている者を死なせる行為は、是認する場合はその者への共感が死なせる行為への嫌悪に優り、否認する場合は共感よりも死なせる行為に対する嫌悪が優るといえるだろう。この両者の対立する立場に対して安定した基準は定められるのだろうか。
この問題について、ヒュームの正義に関する議論を踏まえて、考えてみたい。
【最近の業績】
「臓器移植における自己と他者 ―臓器は人格を持つか―」、
『医学哲学 医学倫理』第18号、日本医学哲学・倫理学会、2000年12月
「バイオエシックスの議論と間柄の倫理 ―人格の概念に関する一考察―」、
『東洋学研究』第38号、東洋大学東洋学研究所、2001年3月
「自己決定の諸問題 ―自己決定と関係性―」、
『医学哲学 医学倫理』第20号、日本医学哲学・倫理学会、2002年11月
「死の選択と信念 ―緩和ケアおよびヒュームの信念に関する議論の検討―」、
『東洋大学大学院紀要』第45集、東洋大学大学院、2009年3月
「安楽死に関するベーコンの議論 ―ベーコンの医学哲学―」、
『東洋大学大学院紀要』第49集、東洋大学大学院、2013年3月
◆2021年12月例会(第294回総合部会例会)
【目次】
日時:12月 4日(土) 15時~17時30分
会場:リモート開催(4~5名程度会場開催が可能です。詳細は下記をご覧下さい。)
発表者:宮嶋 俊一氏(北海道大学大学院 文学研究院)
司会:宮下 浩明氏(みやした内科医院」)
演題:「人間の尊厳」はいかにして奪われていったのか--ワイマール共和制期ドイツを中心に--
【要旨】
近年、「相模原障害者施設殺傷事件」や「京都ALS患者嘱託殺人事件」など、いわゆる「安楽死」に関わるとされる事件が日本で起こり、一部にはそれらを肯定する論調も存在している。だが、こうした事態は今に始まったものではないという意見もあり、優生思想が大きな影響力を持っていたナチズム時代のドイツと今日的状況を重ね合わせる論者もいる。
発表者はこれまで、ドイツにおける障害者殺害(T4作戦)やその後のユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)に至る経緯を19世紀末、エルンスト・ヘッケルによるダーウィン進化論の受容から辿ろうとしてきた。ある意味で「人間の尊厳」がもっとも踏みにじられた出来事は、ヒトラーという「狂人的指導者」やその取り巻きたち、さらには彼らを直接・間接に支えた当時のドイツ国民によって引き起こされたというだけでなく、それを容認してしまう地盤が長い時間をかけて形成されてきたのだと発表者は考えている。本発表では、発表者が専門としているワイマール共和制期の民族主義的宗教運動に焦点を当てつつ、その歴史的な経緯を辿っていきたい。こうした作業は、「人間の尊厳」が危機にさらされつつある現代への警鐘ともなるだろう。
【最近の業績】
再ーーくりかえす世界 』(共著, 「諸宗教における死と再生をめぐって」を分担執筆)
北海道大学出版会 2021年3月
「ナチズム期ドイツにおける『安楽死』政策への道程」『北海道生命倫理研究』第9号、 26-33頁、 2021年3月
「ハイラーにおける宗教現象学の受容と展開」『宗教現象学の歴史的変遷と地域性に関する包括的研究(東京大学宗教学年報 特別号)』、253-259頁、 2021年3月
◆2021年10月例会(第293回総合部会例会)
日時:10月 9日(土) 15時~17時30分
会場:リモート開催(4~5名程度ですが会場開催も可能です。詳細は下記をご覧ください。)
発表者:松田 純氏(静岡大学名誉教授)
司会:中澤 武氏(明海大学)
演題:人間の尊厳とは何か
【要旨】
1 「人間の尊厳」概念の歴史
「人間の尊厳 human dignity」はヨーロッパ起源のヨーロッパ固有の概念。現在に至る
「人間の尊厳」概念の歴史を概観。
2 人間本性の排他的尊厳という神話の終焉——ルソーと東アジアの自然観
人間以外の被造物を人間から差別化した上で、人間である限り誰もが等しく尊厳を有している。絶対差別が絶対無差別を根拠づけるという構造が、「人間の尊厳」概念には内在。この差別構造にルソーは意義を唱えました。ルソーは『人間不平等起源論』の中で、「憐れみの情(pitié) 」(人間をして同胞が苦しむのを見ることを嫌わせる生得の感情)を「人間のあらゆる反省〔理性〕に先立つ」「もう一つの原理」としてあげています。「憐れみの情」はひろく「生きとし生けるもの」への共鳴です。レヴィ=ストロースはルソーの「憐れみの情」を、ユマニスム(人間中心主義)の欠陥をあばき、コギトを終焉させ、「人間本性の排他的尊厳という神話」を終わらせるものと評価しました。さらに「こうした教訓はすでに極東の偉大な諸宗教のなかには含まれていた」とまで述べました。人間の尊厳概念は東アジアの生命観・自然観とは必ずしも合致しません。
3 戦後日本の人間の尊厳ー日本の法律は「尊厳」が好き?
戦後日本は国際連合への加盟を契機に、ヨーロッパ的な「人間の尊厳」概念を受け入れました。日本国憲法を含む日本の法令のなかにも「尊厳」という語が多く使われています。
「個人の尊厳」」や、「高齢者の尊厳」、「児童等の尊厳」、「障害者の尊厳」など、尊厳という語が入った法令は 2021 年現在 43 本あります。近年では平均して年に 2 本ずつ「尊厳」を盛り込んだ法令が作られています。日本の伝統的な自然観とは異なる前提に立つ概念であるにもかかわらず、日本国民は「尊厳」が好きな国民と言えます。
4 「尊厳 」の意味内容を言説化
医療にかかわる法令や医療職の倫理綱領などでも、患者の「尊厳」を守ることの重要性が強調されています。そのため臨床の場で「患者の尊厳」について言及されることもあります。しかしそのような場合でも、「尊厳」がいったい何を意味しているのか必ずしも明確でないまま、なんとなく使っている場合もあります。現在使われている尊厳の意味内容を明らかにすることが必要です。
「尊厳」は現在の日本の辞書的意味では「尊く厳かなこと、またはそのさま」などとなっています。「尊厳」という言葉には重々しい響きがあるため、議論をストップさせる決まり文句のように用いられることも多いです。その意味内容を無自覚のまま用いていると、この言葉を空虚なものにしかねません、臨床や対人援助の場面でどのような思いを込めて「尊厳」という語を用いているのかを振り返り、その意味内容を言説化する努力が求められます。ディーター・ビルンバッハー「生命倫理における人間の尊厳」を参照して、「尊厳」のわかりやすいとらえ方を試みます。
【最近の業績】
著書:『安楽死と尊厳死の現在 最終段階の医療と自己決定』中公新書、3版 2021年
共著: 加藤泰史ほか編『東アジアの尊厳概念』法政大学出版局、2021年
共編著:『ケースで学ぶ 認知症ケアの倫理と法』南山堂,2017年
監訳:ドイツ連邦議会審議会答申『人間の尊厳と遺伝子情報――現代医療の法と倫理』、知泉書館, 2004など
◆2021年9月例会(第292回総合部会例会)
日時:9月 11日(日) 15時~17時30分
会場:リモート開催
発表者:米田 祐介(まいた ゆうすけ)氏(東洋大学)
司会: 小館 貴幸 氏(立正大学)
演題:反出生主義とどう向き合うか(仮)
【要旨】
スープにハエが落ちたという不幸は、スープの美味しさによっては相殺されない。コロナ禍の閉塞感と不安の只中にあるいま、反出生主義(Antinatalism)が静かにひろがりをみせている。2020年、反出生主義インターナショナル(Antinatalism International)が設立され、日本においても、2021年1月、無生殖協会(The Association of Anti – Procreationism in Japan)が設立された。反出生主義の思想史については、古代ギリシャ、古代インドから始まり、19世紀のショーペンハウアー、そして20世紀のシオラン等々と蓄積があるが、21世紀の今日、反出生主義への注目は2006年刊行のベネター著『生まれてこないほうが良かった』のインパクトであろう。
本書にて彼は、生まれてくることは常に害悪であるとし、悲観主義的にでもなく、厭世主義的にでもなく、<はじまり>そのものという規格外に特別な事象を冷徹に取り上げた。ベネターの反出生主義は「生まれること(誕生)」の否定と「産むこと(出産)」の否定の二つを包含するものであり、前者から後者の規範的主張が帰結される。だが、少なくとも日本では、とりわけ後者すなわち反出生主義における反生殖主義的側面のみが受容されてきた感があり、ベネターが主張するところのコアな部分が見えなくなっている。では、ベネター思想の白眉であるところの「快苦の非対称性」とはどのようなものであろうか
。
彼の主張は次のようなものである。ある人が生まれてこの世に存在する場合には、必ず何らかの苦痛と快楽が存在する。逆に、その人が生まれてこない場合には、その人自体が存在しないのだから、苦痛も快楽も存在し得ない。その二つの状況(存在と非存在)を比較したときに、前者の方が「悪い」と判断する。なぜなら、「苦痛が存在する」ことは確実に悪いことだが、「快楽が存在しない」ということは、悪いとはいえないからだ。その「快苦の非対称性」ゆえに、生まれてきて「苦痛も快楽も存在する」よりも、そもそも生まれてこずに「苦痛も快楽も存在しない」方がよいのである。したがって、苦痛を引き起こさないことの方が快楽を生みだすことよりも優越するのである。
報告者は、このようなベネターの思想が十分に説得力のあるものだとは思えない。もとよりシオラン風にいえば、生まれないことで人が救済されるのならば、しかし、そもそも救済されているとき、その救済される当人は存在しないからである。統制的な規範(人生内部の価値観)によって構成的なもの(人生そのものを創出するもの)は問えないであろう。
しかし、これまで存在していたものがなくなる喪失としての非存在と、初めから存在しない想像上の非存在を明確に区別するというベネターのまなざしは、あらゆる問いの補助線になると考えている。圧倒的に経験しえない規格外の<生>そのものを問うベネターの思考形式は同時に、<死>そのものを問うことにもひらかれているのではなかろうか。このような問題意識から、日本におけるベネター受容の概念間の混同や整理を通じて、反出生主義について考察する。
【最近の業績】
・「フクシマとサガミハラが投げかけるもの――『生産性』の2010年代、事件後に
人間の尊厳について語るということ」立正大学哲学会編『立正大学哲学会紀要』第15号(2020年)、
・「〈核災〉と〈いのち〉の選別」金井淑子・竹内聖一編
『ケアの始まる場所――哲学・倫理学・社会学・教育学からの11章』(ナカニシヤ出版、2015年)、
・「フロムと歴史知――『愛するということ』におけるケア概念の構成を中心に」
杉山精一編『歴史知と近代の光景』(社会評論社、2014年)、等。
◆2021年7月例会は中止となりました。
◆2021年6月例会(第291回総合部会例会)
日時:6月 13日(日) 13時~16時 6月月例会案内チラシ(PDF)
会場:リモート開催
発表者:冲永 隆子氏 (帝京大学)
司会:江黒 忠彦氏 (元帝京大学教授)
演題:「人生会議」は「デスハラ」なのか?!生きる権利と死ぬ権利
【要旨】
いのちに関わる万が一の時、どんな医療やケアを受けたいかを自分の意思で決定できない状況に備えて、家族や医療者らと繰り返し話し合うことを「アドバンスケアプランニング、ACP」という。厚生労働省が「人生会議」の愛称をつけ普及を目指してきたが、2019年11月の「人生会議」啓発ポスターが物議を醸し永久撤収された。
本発表では、5月15日に行った、第47回保健医療社会学会円卓会議(生きる権利ー医療に関するサービス・研究・教育に当事者・市民参画が必要な理由ー企画者:細田満和子)での演者による報告ならびに質疑応答を紹介する。1.「安楽死」を肯定する二人の患者、写真家・多発性骨髄腫患者の幡野広志氏と、韓国語通訳者で多系統萎縮症のNHK「彼女は安楽死を選んだ」に登場した小島ミナ氏の事例を4分割法で比較分析、2.帝京の学生の「安楽死」肯定意見、3.安楽死ディーベートの賛成・反対を考えるロジックから「人生会議」はデスハラなのか?生きる権利と死ぬ権利について、フロアー参加者の皆様と意見交換を行いたい。当日、「終末期の意思決定支援に向けての日本人の死生観」(冲永博論2019)、現在出版準備中の『終末期の意思決定―コロナ禍の人生会議に向けてー』内容も一部紹介する。
(晃洋書房『終末期の意思決定―コロナ禍の人生会議に向けてー』2021年冬頃出版予定)
【最近の業績】
・「学生と共に考える「コロナ時代の生命倫理」―リベラルアーツ教育に向けた実践報告」(帝京大学共通教育センター論集2021年 Vol.12 53-75頁)
・「終末期の意思決定支援に向けての日本人の意識」(京都大学博士学位論文2019)
・「ジェンダーについての教育はどうあるべきか?」「キリスト教的家庭観はどこまで生命倫理における性の倫理に適用可能か?」(盛永審一郎・松島哲久・小出泰士編『いまを生きるための倫理学』丸善出版2019年)
・「生命倫理理論」(塚田敬義・前田和彦編『改訂版 生命倫理・医事法』、医療科学社、2018年17-35頁)
・「人生の終焉をどう支えるか―患者と家族の終末期の希望を実現させるためのACP(事前ケア計画)意識調査から―」(『サイエンスとアートとして考える生と死のケア―第21回日本臨床死生学会大会の記録―』エム・シー・ミューズ、2017年85-100頁)
◆2021年5月例会(第290回総合部会例会)
日時:5月 8日(土) 15時~17時
会場:リモート開催
発表者:長島 隆氏 (東洋大学 名誉教授)
司会:林康弘氏(武蔵野大学)
演題:
「コロナ禍における情報学の役割ーーEU における接触追跡アプリの問題と医療の場における情報学の役割」
【要旨】
世界的なコロナのパンデミックにおいて、日本においては情報学が果たす役割はほとんど見えない状況にある。COCOA の無残な失敗は、そもそも日本においてコロナ禍にたいして対応できず、医療崩壊どころ
か、日本政府が屈服して日本の崩壊を予想させるものである。
それでももう一度日本社会を再興するために、何をなすべきかが問われなければならない。自分の経験からも、バブル以後の日本社会の改革そのものの挫折を克服しやり直することが必要になっているという印象を持っている。いくら嘆いてもどうしようのなく、私が応用倫理学の面では、情報倫理を基本として生命倫理へと展開し、現場主義に依拠していることから、この COCOA の失敗を検証することが必要であると考えている。今回の報告は、その前提として、プライバシー問題の進展を基準にして情報学がどのように貢献できるか、またそのためには何が必要かを明らかにすることが必要であることをいわゆる「接触追跡アプリ」の問題を焦点において、浮かび上がらせることである。
まず、プライバシーをめぐる EU の議論を概観し、次に、現在動いている国際的なこの追跡アプリの性格を解明し(分散型と集中型)、その限界の解明から情報学の役割を解明する。
【最近の業績】
「後期シェリングとヘーゲル-自然哲学の展開可能性について」
(『ヘーゲル哲学研究』第 24号、2018 年 3 月、22‐32 頁)
「環境との媒介における生命-ヘーゲル自然哲学に即して」
(『国際哲学研究』別冊9、2018年 3 月、2017 年 3 月 79‐98 頁)
「フロリーディの『ソフトエシックス』と『一般データ保護規則』」
(『国際哲学研究』別冊 13号、89‐103 頁)
◆2021年3月例会
202年2月12日現在、2021年3月例会開催を目指して調整しています。
日時:3月 6日(土) 15時~17時
会場:リモート開催
本学会員でない方で参加を希望される方は事務局までご連絡ください。
事務局 asakura@toyo.jp(@は全角にしてあります。半角@に入れかえて送信してください。
(学会員にはすでにメールでミーティングID などをお知らせしてあります。届いていない会員は事務局までご連絡ください。)
発表者:関根 透氏 (鶴見大学 名誉教授)
司会:島田 道子氏(鶴見大学)
演題:「鎌倉時代の然阿良忠上人のターミナルケア」
要旨
鎌倉時代は武士が貴族に代わって主導した時代で、外観や形式よりも質実剛健で現実的な考え方が行われた時代であった。宗教も鎌倉新仏教が登場し、護国信仰や高遠な理想を探究して難行苦行するよりも、平易な易行による個人の救済を唱える宗教で、日本人の体験と思索を通して生み出された日本的な宗教でもあった。
医療においても質的な大転換が見られ、自分の体験や経験を重んじる医療が模索され、前代の『医疾令』は形骸化し、誰でも自由に医療ができるようになった。そのため職業使命感 もない「俄か開業医」が増え、報酬、功名、出世を求めて奔走したので、医師の身分が低下した。そうした背景の中で仏教の慈悲の精神を具現しようとして活躍したのが「ほうしくすし」と呼ばれる僧医たちであった。浄土宗の第三祖・然阿良忠や真言律宗の叡尊や忍性、梶原性全たちである。
然阿良忠上人(1199-1287)は鎌倉光明寺の開祖で、「然阿弥陀仏」「悟真寺上人」「鎌倉上人」と呼ばれ、没後「記主禅師」の諡号を賜っている。今回、良忠上人の著作である『看病用心抄』(1巻)から鎌倉時代のターミナルケアの考え方を紹介しようと思う。今回、資料とした写本は、1240年頃に著された3つの写本(安土・浄厳院本、京都・常楽台寺本、横浜・金沢文庫本)から紹介する。
この『看病用心抄』は人間に尊厳を持たせて臨終を迎えさせてやろうとする看取りの方法が具体的に示された臨終作法書である。これは中国の善導大師の『臨終正念訣』と源信の『臨終行儀』を基本に書かれている。その内容は「前書き」と「19か条の条文」と「後書き」の3部で構成されている。「前書き」の冒頭では「敬知識看病の人に申上候・・」と始まり、看病する僧侶と臨死者の関係を親子の関係をもって看病すべきことを教えている。慈悲の心は看病僧にとって重要な心情のひとつである。「第5条」では「療治灸治のことは命をのぶる事あらず。ただ病苦をのぞくばかりなり。されば苦痛を止めて・・」と述べ、治療は延命のためでなく、苦痛除去・苦痛緩和にあると説いている。他に「返々も用心怠るべからず」「捨てはつる事はゆめゆめあるまじく候」「「慈悲をもって教護し給ふべし」などと看取りの心遣いを説いている。最後の「後書き」では「病の初めよりかねてよくよくこのむねを御心得あるべき候。これを大概ねとして、この外のことハ時にのぞみ折にしたがひて、よきように御はからひ候べく候」と結んでいる。内容は詳しくスライドで説明する。良忠上人の根本は宗教的な「慈悲の心」や「極楽往生させること」にあるように考えられる。
なお、然阿良忠上人の『看病用心抄』は、後に海住山寺の解脱貞慶に、更に江戸時代には可円の『臨終用心』へと受け継がれて、江戸時代の看取りの実用書として普及した。
【最近の業績】
『信頼される歯科医師Ⅱ』日本歯科医師会(監修)2020年
『生命倫理学の基本構図』第一巻(分担)丸善出版、2012年
『人間学入門』日本医学教育学会編・南山堂(分担)
『医療倫理の系譜』北樹出版(単著)2007年