◆2020年3月例会
2021年2月12日現在、2021年3月例会開催を目指して調整しています。
日時:3月 6日(土) 15時~17時
会場:リモート開催
発表者:関根 透氏 (鶴見大学 名誉教授)
司会:島田 道子氏(鶴見大学)
演題:「鎌倉時代の然阿良忠上人のターミナルケア」
要旨
鎌倉時代は武士が貴族に代わって主導した時代で、外観や形式よりも質実剛健で現実的な考え方が行われた時代であった。宗教も鎌倉新仏教が登場し、護国信仰や高遠な理想を探究して難行苦行するよりも、平易な易行による個人の救済を唱える宗教で、日本人の体験と思索を通して生み出された日本的な宗教でもあった。
医療においても質的な大転換が見られ、自分の体験や経験を重んじる医療が模索され、前代の『医疾令』は形骸化し、誰でも自由に医療ができるようになった。そのため職業使命感 もない「俄か開業医」が増え、報酬、功名、出世を求めて奔走したので、医師の身分が低下した。そうした背景の中で仏教の慈悲の精神を具現しようとして活躍したのが「ほうしくすし」と呼ばれる僧医たちであった。浄土宗の第三祖・然阿良忠や真言律宗の叡尊や忍性、梶原性全たちである。
然阿良忠上人(1199-1287)は鎌倉光明寺の開祖で、「然阿弥陀仏」「悟真寺上人」「鎌倉上人」と呼ばれ、没後「記主禅師」の諡号を賜っている。今回、良忠上人の著作である『看病用心抄』(1巻)から鎌倉時代のターミナルケアの考え方を紹介しようと思う。今回、資料とした写本は、1240年頃に著された3つの写本(安土・浄厳院本、京都・常楽台寺本、横浜・金沢文庫本)から紹介する。
この『看病用心抄』は人間に尊厳を持たせて臨終を迎えさせてやろうとする看取りの方法が具体的に示された臨終作法書である。これは中国の善導大師の『臨終正念訣』と源信の『臨終行儀』を基本に書かれている。その内容は「前書き」と「19か条の条文」と「後書き」の3部で構成されている。「前書き」の冒頭では「敬知識看病の人に申上候・・」と始まり、看病する僧侶と臨死者の関係を親子の関係をもって看病すべきことを教えている。慈悲の心は看病僧にとって重要な心情のひとつである。「第5条」では「療治灸治のことは命をのぶる事あらず。ただ病苦をのぞくばかりなり。されば苦痛を止めて・・」と述べ、治療は延命のためでなく、苦痛除去・苦痛緩和にあると説いている。他に「返々も用心怠るべからず」「捨てはつる事はゆめゆめあるまじく候」「「慈悲をもって教護し給ふべし」などと看取りの心遣いを説いている。最後の「後書き」では「病の初めよりかねてよくよくこのむねを御心得あるべき候。これを大概ねとして、この外のことハ時にのぞみ折にしたがひて、よきように御はからひ候べく候」と結んでいる。内容は詳しくスライドで説明する。良忠上人の根本は宗教的な「慈悲の心」や「極楽往生させること」にあるように考えられる。
なお、然阿良忠上人の『看病用心抄』は、後に海住山寺の解脱貞慶に、更に江戸時代には可円の『臨終用心』へと受け継がれて、江戸時代の看取りの実用書として普及した。
【最近の業績】
『信頼される歯科医師Ⅱ』日本歯科医師会(監修)2020年
『生命倫理学の基本構図』第一巻(分担)丸善出版、2012年
『人間学入門』日本医学教育学会編・南山堂(分担)
『医療倫理の系譜』北樹出版(単著)2007年
総会・月例会に関して6月開催を目指していましたが現状にかんがみ6月開催は見送り、当面延期とすることになりました。
開催時期が決まり次第、早急にお知らせします
◆5月以降の総会・例会に関して
総会・月例会に関して5月開催を目指していたが現状にかんがみ
開催時期が決まり次第、早急にお知らせします。
◆4月総会・例会 総会は5月以降に延期となり、4月例会は中止となりました。
新型コロナウィルス(CIVID-19)の状況を鑑みての決定となりました。ご了承ください。
5月の開催日については決定次第お知らせします。
◆3月例会(第290回総合部会例会) 3月例会は中止となりました。
日時:3月 7日(土) 15時より
会場:東洋大学白山校舎 6202教室(6号館2階)
◆2020年1月例会(第289回総合部会例会)
日時:1月 11日(土) 15時より
会場:東洋大学白山校舎 6207教室(6号館2階)
発表者:半田 栄一氏 (東京医療学院大学非常勤講師、中央大学客員研究員)
司会:小館 貴幸氏(立正大学)
演題:「医療における『全人性』と『霊性』」
こうした状況に置いて、今「人間」をどのようにとらえるのか、「生命」とは何であるか、という根本的な次元から、医学や医療のありかたも捉えなおす必要に迫られている。ここでは「人間と自然」の関わりにおいて、「風土」という観点から文化や文明の形成も捉え、固有の文化における生命や自然に対する態度において医療を考えることも求められよう。
「自然環境」に関しては、近代以降において西欧的自然観において、「エコロジー」という思想や自然保護運動が現れ出たのであるが、今医療においては、西欧発祥の現代医学の中から、客観的に捉え対象化された「心・身」という捉え方から、「自・他」を超えた「生命」という発想が志向されつつある。現代医療が抱える諸矛盾が問題化する中、WHOが健康を定義に関するさらなる検討において「スピリチュアリティ」を含め、「生命」のダイナミズムについても触れていることは大きな意味を持っている。「リスボン宣言」における「宗教的支援に対する権利」とも関連する。
「心身」の一体性に基づく「心身医学」や「霊性」を含む人間観と医療、人間と自然の関わりにおける健康が様々な形で問われている。機械論的、唯物論的人間観を超えた「全人的医療」が唱えられて久しいが、今「補完代替医療」から「ホリスティック医学」や「統合医療」が志向されつつある。
ここでは、医学・医療における「霊性」や「宗教性」のもつ意味について述べ、同時に西洋医学とは異なるパラダイムに基づく、伝統医学(東洋医学、非西洋医学)や民間医療、心理療法が現代の医療において持っている意味や役割について考えてみたい。
新年度から会場費の徴収は廃止されました。
◆2019年12月例会(第288回総合部会例会)
日時:12月 07日(土) 15時より
会場:東洋大学白山校舎 6207教室(6号館2階)
発表者:根本 輝氏 (法政大学大学院 博士後期課程2年)
司会:江黒 忠彦氏(元帝京平成大学教授)
演題:「ル・グランの準市場理論と日本の介護保険制度の諸問題」
景と成立,ならびにその展開を検討するものである.そこから,準市場理論に照らした国
内における介護保険制度の諸問題を示すことを目的としている.
先進諸国では少子高齢化,医療技術などの急速な発展を背景として,肥大化する公共サ
ービスの費用抑制が共通の課題となっている.こうした社会保障費の増大に対し,各国は
,準市場の手法を公共サービスで採用している.準市場(Quasi-Markets)とは「公共サ
ービスにおいて国家による資金提供を維持しながらも,民間部門を含むサービス提供者間
に契約をめぐって競争させる枠組み」を意味している.公的部門に市場原理を導入する目
的は,公的費用の肥大化を防ぐことであり,さらに,利用者の選択権を確保することによ
ってサービスの質と効率性の向上が目指されている.
この準市場の考え方を理論的に示したのがル・グランの研究である.ル・グランによれ
ば,準市場の成功条件とは,市場構造の転換,情報の非対称性の緩和・防止,取引費用と
不確実性への対応,動機づけのあり方,クリームスキミングの防止の5つが必要であり,
これらの条件を整備することによって,4つの評価基準となる効率性,応答性,選択性,
公平性の向上が図られるとした.
しかしながら,ル・グランの理論は準市場化が果たされた現在の公共サービス領域にお
いても,これらの諸条件が適応可能であろうか.そこで,本研究はル・グランの理論的な
背景から成立までを整理し,準市場理論を検討した.そこから,日本の介護保険制度にお
ける現代的な諸問題を先行研究から概観している.
以上のような検討から,準市場理論から観た現在の介護保険制度は,主に応答性と選択
性に諸問題を抱えていることが示唆された.最後に,国内における応答性の確保について
,外国人技能実習生の受け入れの現状を報告する.尚,本発表は博士論文の中間的な発表
である.
活リズムの対応へ―」『社会福祉学』(2017)Vol58p41-53.
事例報告:「ワークライフバランスの現状と今後の展望 : 介護職員(私)の事例を通して」
『介護福祉』(2014)Vol94p83-91
◆10月例会(第287回総合部会例会)
日時:10月 19日(土) 15時より
会場:東洋大学白山校舎 1203教室(1号館3階)
発表者:小阪 康治氏 (元 郡山女子大学教授)
司会:尾崎 恭一氏(東京薬科大学)
演題:「東日本大震災と死生学」
ている。哲学、倫理学、宗教学という思想系の分野も例外ではない。私は事故発生3月
11日直後の、4月1日に福島県郡山市に着任して、7年間勤務し、現在も月1~2回
福島県に通っている。この状況で、哲学、倫理学を学ぶ者として、この大災害について
考えざるを得ない立場に置かれている、と感じている。
すでに多くの哲学、倫理学、宗教学研究者も、この件について研究を発表しておられ
る。しかし問題の大きさからして、依然として「群盲(これ差別用語なんですかね。調
べた範囲ではそういう指摘はありませんでしたが。)象を撫ず」の感を免れない。それ
でも、ひとつひとつの問題を、福島県に住んだという立場から、これからも検討してい
く心算である。
大震災時に「位牌だけ」持って逃げた、という話は多くの人を戸惑わせた。この種類
の宗教的な問題については、無論、仏教学や宗教学からの研究も可能である。だが、
現在の日本人の宗教意識の希薄さからして、宗教色なしの研究も有用ではないか。
津波や原発事故という限界状況に直面した人たちの行動の研究は、生命倫理学、
死生学におけるケアとも通底する所がある。この視点から1時間ほどの発表を行う。
残りの3分の1の時間を、低レベル放射線の中に住んでいる人の立場から、
問題を提起してみたい。
『応用倫理学の考え方』単著 ナカニシヤ出版
『環境自治体ハンドブック』編著 NPO法人環境管理システム研究会 西日本新聞社
◆9月例会(第286回総合部会例会)
日時:9月14日(土) 15:00~18:00
会場:東洋大学 白山校舎 1311教室(1号館3階)
発表者:海野 まゆこ氏(放送大学学部生 看護師)
司会:島田 道子氏(鶴見大学)
演題:「共感の成立-自助グループにおける「共感」成立の特徴について」
本発表では、私が関わってきた「ハラスメント被害者の自助グループ」でおこなわれてきた語り合いで、「共感が成立するプロセス」について分析した結果を報告します。「ハラスメント」については、「関わりたくないことだが、どのように判断したらよいのか分からない」と思っている人が多いのではないでしょうか。今回は、ハラスメントでも特に分かりにくい「精神的なハラスメント」を中心に、先行研究と自助グループでの語り合いを分析しながら、共感問題を考えていきます。精神的なハラスメントについては、「ハラスメント」や「共感」などのように抽象的な表現しかできなかったことが、問題の理解を困難にする要因ともなっていました。自助グループの語り合いに「オープンダイアローグ」の理論を導入することで、参加者たち自身にも分かりにくかった精神的なハラスメントが、自分たちの体験として理解、認識でき、共感しあえるプロセスに至ることも明らかになりました。こうした点の事実と意義について考察することを通じて、精神的なハラスメントが、どのように起こり被害を与えてしまうのかを明らかにし、その予防対策についても考えたいと思います。
2017年 関東医学哲学・倫理学会 総合部会例会
「多死時代を迎える病院の役割 ― 一般病床における看護を中心として」
2017年 日本保健医療社会学会大会
「看護師業務からみる一般病床に起きる問題 - 看取り業務の実体を考察する」
2017年 日本医学哲学・倫理学会大会
看とりケアにより起こる公認されない悲嘆感情―看護の職場環境の一考察」
・論文
『医学哲学と倫理 第13号』関東医学哲学・倫理学会 1-6ページ 2018年9月。
◆7月例会(第285回総合部会例会)
日時:7月6日(土)15:00~18:00
会場:東洋大学 白山校舎 6316教室(6号館3階)
発表者:中澤 武氏(明海大学)
司会:伊野 連氏(早稲田大学)
演題:「人格の自律を尊重するとは、どういう意味か?」
◆6月例会(第284回総合部会例会)
日時:6月1日(土)15:00~18:00
会場:東洋大学 白山校舎 6316教室(6号館3階)
(前回と会場が異なります)
発表者:米田 祐介氏(東洋大学)
司会:小館 貴幸氏(立正大学)
演題:フクシマとサガミハラが問いかけるもの
【要旨】
本報告では、フクシマ(2011年)とサガミハラ(2016年)の〈はざま〉で開始された「新型出生前診断」(2013年)をめぐる生‐権力/構造的暴力の磁場に光をあてる。近年高らかに掲げられている「共生」の理念とは裏腹に、二つの事件の負荷がはからずも炙り出したのは私たちの社会空間にある「内なる優生思想」であり、「新型」はこれを助長するものである。
フクシマでは、放射能によって障害児が産まれることを危惧し人しれず中絶を選んだ、
いや選ばされた女/母たちがいた。サガミハラでもまた、障害者は「生きるに値しない」
というUの主張に賛同・同調する声があったのも周知の事実であり、この二つの事件の〈
重なり〉として「内なる優生思想」を指定しうる。いつの時代も力=権力(power)の働
きかけは重層・複合的だ。近代資本制システムが要請する効率と光の速度に私たちの自然
的身体は取り込まれ、いまや生の〈はじまり〉が、すなわち偶然(=自然)の舞台であっ
たはずの〈出産〉が、医学的分類による「選択」(=必然)の場となりつつある。もはや
、力(power)に抗して「選ばないことを選ぶ」ことは一層の困難を強いられ、「障害」
という一般的名辞の内圧/暴力によっていたるところに地図にない「線」が引かれること
になる時代を迎えるだろう。〈いのち〉の係留点としての女性身体は深く、深く、傷つけ
られようとしている。
それでは如何にして、線引きの暴力に対し抗いは可能だろうか。そもそも、“誰”が線
を引いているのか。二つの事件の〈重なり〉が示すのは力=権力(power)と共犯関係にある〈わたし〉である。では、なぜ〈わたし〉は線を引かなければならないのか。もっといえば、線引きの“構え”による暴力(=広義の優生思想)を発動しなければ、なぜ〈わた
し〉は〈わたし〉を維持できないのであろうか。そこには、「障害」はもとより、非正規
的な生や労働、男女のジェンダー的な問題等、ひいては“生き難さ”(=自尊感情)をめ
ぐる問題が重層的に深く絡まりあっているはずである。本報告は、旧来人間存在の基礎単
位とされてきた――あるいはケアの単位――近代的な「個人individual」という単位の前提
に懐疑をむけることを通じてシステム(=権力)に取り込まれつつもそれを“内破”する
〈わたし〉の“構え”の再構成を模索せんとするものである。
【最近の業績】
・「〈ここ〉からはじまる――フクシマとサガミハラが『身体』に投げかけるもの」総合
人間学会編『総合人間学研究』VOL.12(2018年、所収)
・「〈核災〉と〈いのち〉の選別」金井淑子・竹内聖一編『ケアの始まる場所――哲学・
倫理学・社会学・教育学からの11章』(ナカニシヤ出版、2015年、所収)
・「フロムと歴史知――『愛するということ』におけるケア概念の構成を中心に」杉山精
一編『歴史知と近代の光景』(社会評論社、2014年、所収)
◆5月例会(第283回総合部会例会)
日時:5月11日(土)15:30~18:00
会場:東洋大学 白山校舎 6212教室(6号館2階)
(通例より30分遅れとなります)
発表者:大林雅之氏(東洋英和女学院大学)
司会:黒須三惠氏(東京医科大学)
演題:日本における〈バイオエシックスの歴史〉への視点と課題
【要旨】
本発表では、日本において〈バイオエシックスの歴史〉がいかに描けるか、という問題意識のもとに、主に1960年代以降の日本の医療をめぐる出来事を概観し、その歴史を見据える視点と課題を明らかにしたい。
発表者は、本年3月に定年退職を迎え、その最終講義において、自らの研究活動を主にバイオエシックスとの関わりから回顧し、1970年代以降の日本における「バイオエシックス」の導入から始まる議論の変遷についての私見を述べた。そこにおいては「生命倫理(学)」と訳されて議論されてきたものの特徴が、欧米の議論のあり方とは著しく異なるのではないかと指摘した。すなわち、1970年代のバイオエシックスの導入における日本の医療のあり方への問題意識の希薄さ、1980年代における先端医療技術の受容における患者・市民レベルの視点の欠如、1990年代の「生命倫理」問題をめぐる議論における「専門職の倫理」の限界と法制化、ガイドライン化などである。このような日本における「生命倫理」をめぐる議論の展開を見ていくと、 日本における〈バイオエシックスの歴史〉が描かれることの可能性は極めて低いように思われた。
その最終講義では十分に言及できなかった2000年代に入ってからの日本の医療における出来事も取り上げて、本発表では、日本における〈バイオエシックスの歴史〉を示すための視点を提示し、それを踏まえて、1960年代以降の医療をバイオエシックスの視点、特に「運動としてのバイオエシックス」の視点から考察し、日本におけるバイオエシックスの新たな課題を指摘してみたい。
【最近の業績】
大林雅之「小さな死生学序説−「小さな死」から「大きな死」へ−」、『東洋英和大学院紀要』、第15号、13-22頁、2019年。
大林雅之『小さな死生学入門−小さな死・性・ユマニチュード−』(東信堂、2018年)
大林雅之『生命の問い−生命倫理学と死生学の間で−』(東信堂、2017年)
◆年次総会および4月例会(第282回総合部会例会)
4月例会に先立ち年次総会が例会会場にて開催されます。万障お繰り合わせのうえご参集お願いします。
年次総会
日時:4月14日(日)15:30~16:30
会場:東洋大学白山校舎6204教室(6号館2階)
例会
日時:4月14日(土)16:45~18:00
会場:東洋大学 白山校舎 6204教室(6号館2階)
発表者:小館 貴幸氏(立正大学)
演題:年間テーマ「ケアの現在・過去・未来」
司会:調整中
要旨:今回の報告では、2019年度関東医学哲学・倫理学会(以下、学会と略記)の年間テーマを提示し、その趣旨説明を行うこととする。
2018年度の年間テーマは「ヴァルネラブルな存在(弱い存在)としての人間」であった。これは、昨年11月に「地域医療」をテーマとして北海道大学で行われた第37回日本医学哲学・倫理学会の全国大会との連携を図り、高度に情報化され医療化された現代社会の中で、医療に翻弄される人々や取り残される人々、病やそれにまつわる様々なスティグマによって容易に傷つきうる人々を直視することによって現実を受け止め、最期まで病気や障がいや老化による衰えを抱えつつも自分らしく生きるための方途を探求するという意図に基づいたものである。そして同時に、私たちは生老病死を宿命づけられた有限な存在として他者のケアを必要としており、人間存在そのものがヴァルネラビリティに根ざしているということを浮彫にするというものでもあった。2019年度においても、昨年の年間テーマとの継続性を考慮し、充分に扱いきれなかった諸問題を再び取り上げられるような機会を一部設けていきたい。
ところで、今年度から新元号となることは周知のことであるが、『平成30年版高齢社会白書』によれば、日本の高齢化率は27.7%であり、平均寿命は男性84.95歳/女性91.35歳、健康寿命は男性72.14歳/女性74.79歳となっている。これは自立した高齢者の姿を反映するものであるが、それでもやはり最後の10数年は何らかのケアを必要とすることを示している。高齢者のいる世帯は全世帯の約半数を占め、「夫婦のみ世帯」が約3割で最も多く、「単独世帯」と合わせると全体の過半数を占めている。
このような現状下で、深刻化する人手不足を補うための新たな外国人材を受け入れるべく、入管法の改正によって今月から介護の分野でも新たな在留資格として「特定技能1号」が創設された。また、従来から注目を集めている2025年問題(団塊の世代が後期高齢者を迎えること)ももうすぐ手の届くところまで来ている。2025年に700万人(約5人に1人)と想定されている認知症者へのケアについても、認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン)にて示された7つの柱の中で、介護関連については、認知症の容態に応じた適切な医療・介護等の提供、認知症の人の介護者への支援、介護モデル等の研究開発が示されている。
看護の分野では、日本看護協会による「2025年に向けた看護の挑戦 看護の将来ビジョン いのち・暮らし・尊厳をまもり支える看護」の策定によって、従来の病院完結型の体制から、医療・ケアと生活が一体化した地域完結型への体制への移行を掲げている。また、今後ますます増大するであろう在宅医療に備えて、「訪問看護アクションプラン2025」も策定され、訪問看護の規模と機能の拡大や地域包括ケアへの対応などが既に打ち出されている。
以上を踏まえ、今年度の学会での年間テーマとして掲げたいのは、「ケアの現在、過去、未来」である。ケアは常に「ケアする者」と「ケアされる者」との顔の見える直接的交わりにおいて成立するゆえに、まずは様々な場面での「ケアの現在」を知ることを第一に挙げた。次いで、ケアのあり方を方向づけるケア概念の考察やケアの起源などの探求などを考慮し、「ケアの過去」を挙げた。そして、ケアは必然的に次のケアへと持続的に繋がっていくということに加え、今後の私たちの有るべき姿や来るべき2025年問題に向けての方策を検討する意味を込めて「ケアの未来」を挙げた。
本発表では、ケアの具体的な側面として介護について取り上げる。まず最初に「介護」という言葉の誕生とその背景を考察する。次いで介護を成立させるケアの概念について検討してみたい。その際、ケア概念に有意義となりうる「汝の汝としての我」という森有正が提唱した概念を取り上げる予定である。
会費:300円
◆3月例会(第281回総合部会例会)
日時:3月2日(土)15:00~18:00
会場:東洋大学 白山校舎 5208教室(5号館2階)
(会場は変更の可能性があります。変更の際は速やかに掲示します。)
発表者:棚橋 實氏(元芝浦工業大教授)
演題:「医学哲学倫理学会を考える」
司会:中澤 武氏(明海大学)
要旨:
「すでに280回を数える月例会の区切りとして、これまでの学会の在り方とこれからの学会の方針を考えたい
① 学会の趣旨と現在の位置
② 生命倫理の分野の変動;急速な科学技術の進展
③ 置き去りの高齢社会;死はどこへ行ったか
④ 生命の更生要素の急激な変革;「胃瘻」の問題
⑤ これからの分野 」
会費:300円
◆2019年1月例会(第280回総合部会例会)
日時:1月12日(土)15:00~18:00
会場:東洋大学 白山校舎 5208教室(5号館2階)
(会場は変更の可能性があります。変更の際は速やかに掲示します。)
発表者:佐藤 清利氏(日本ALS協会 東京都支部長)
演題:「お父さん頑張って!!」
司会:小館 貴幸氏(立正大学)
要旨:
難病であるALS(筋委縮性側索硬化症)を発症して23年が経ち、人工呼吸器を装着して16年目を迎えました。今回の発表では、「ALSと向き合いながらの療養生活を支えたもの」についてお話ししようと思います。そして、生活者として生きる上で重要な要素となる「ALS患者としての社会活動」や、人間として不可欠である「コミュニケーションの大切さ」についてお話させて頂きます。加えて、オーストラリアで開催されたALS国際会議に参加した時の体験等も合わせてお話致します。この発表を通じて、皆さんにALSという難病やALS患者が抱える様々な思い等を広く知ってもらえれば幸いです。
なお、佐藤さんのお話に先だって、司会者からALS(筋萎縮性側索硬化症)という病いについての説明や現状についての解説を行います。
会費:300円
◆2018年12月例会(第279回総合部会例会)
日時:12月1日(土)15:00~18:00
会場:東洋大学 白山校舎 5208教室(5号館2階)
(前回までの会場と異なりますのでご注意ください)
発表者:田村 京子氏(帝京平成大学)
演題:「小児腎移植に関する倫理問題」
司会:羽金 和彦氏(栃木医療センター)
要旨:
本発表は、小児腎移植の現状を、生体臓器移植の倫理原則の一つ「レシピエントとドナーの利益・不利益の比較衡量」の観点から考察しようとするものである。
小児腎移植は、成人の末期腎不全患者の場合とは異なり、小児(20歳未満)の末期腎不全患者に積極的に勧められるべき治療法とされている。その最大の理由は、小児の慢性腎不全患者に特有な問題である成長障害を腎移植により防ぐことができる点にある。
日本移植学会・日本臨床腎移植学会登録委員会により登録・集計されたデータによれば、1964年~2014年末までに小児をレシピエントとする腎移植件数は2,876である。レシピエント年齢は、0~4歳が241、5~9歳が535,10~14歳が882、15~19歳が1,218例である。ドナー別にみると、生体腎移植2,582(89.8%)、献腎移植294(10.2%)であり、献腎移植のうち心停止後腎移植は265、脳死下腎移植は29となっている(脳死下献腎移植は2006年から実施)。
また、最近の傾向として挙げられるのは、腎移植の適応が拡大していること(ABO血液型不適合腎移植、後部尿道弁などの下部尿路障害を伴った症例に対する腎移植、知的障害児に対する腎移植、原発性過蓚酸尿症に対する肝・腎複合移植など)と、先行的腎移植が増加していることの2点である。先行的腎移植とは、透析を経ずに、腎移植を受けることである。透析が長くなると発症する合併症を避けることができるところにその利点があるとされる。
以上を言い換えるなら、小児腎移植では、レシピエントが受ける利益を最大限にしようとする一方で、生体ドナーに対して臓器摘出という侵襲行為を早める傾向にあると言えるだろう。すなわち、本来例外的補完的なものであるべき生体臓器提供をさらに拡大しようとするものであろう。一体小児腎移植においてレシピエントにとっての利益・不利益、ドナーにとっての利益・不利益はどう解釈されるべきなのだろうか。具体的な事例を参照しながら、小児腎移植における倫理原則を再考してみたいと思う。
最近の業績:
論文:加藤英一・田村京子「The Analysis of mental attitudes of Japanese medical safety managers」『北里大学一般教育紀要』第16号p.137-150、2011年
研究発表:田村京子
「生体臓器移植の倫理」関東医学哲学・倫理学会 2012年
報告:田村京子
「医療におけるエラーと専門職の責務」『医療と倫理』第9号、p.70-80、2013年
会費:300円
◆11月例会(第278回総合部会例会)
日時:11月10日(土)15:00~18:00
会場:東洋大学 白山校舎 5101教室(5号館1階)
(前回までの会場と異なりますのでご注意ください)
発表者:船木 祝氏(札幌医科大学)
演題:「個人と共同体――独居高齢者と私たち」
司会:大西奈保子氏(帝京科学大学)
要旨:
総務省「自治体戦略2040構想研究会」中間報告によれば、2040年の高齢化率は現状の27.7%から、35.5%に増加する見通しである。一人暮らし高齢者に関しては、総務省統計局国勢調査(平成22年)によると、65歳以上人口のうち16.4%となっていたが、国立社会保障・人口問題研究所の推計(平成30年)によれば、2040年の独居率は、65歳以上の男性で2015年の14.0%から20.8%へ、65歳以上の女性で2015年の21.8%から24.5%へ上昇する見通しである。独居高齢者のさらなる増加が予測される中、こうした高齢者を地域共同体の成員としてどのように支えていけばいいかを検討することは喫緊の課題である。本発表は、研究グループが行った、独居高齢者のインタビュー調査[研究参加者は、札幌市、留萌市、釧路市及び黒松内町在住の65歳以上90歳未満の独居高齢者。調査期間は、平成28年9月〜平成29年6月]を踏まえ、独居高齢者と共同体のあり方を哲学・倫理学的に考察する。
最近の業績:
船木祝:共同体形成の困難な社会―高齢者との関連において―,『北海道生命倫理研究』Vol.6, 2018年, 1-12頁
船木祝:孤独圏と共同体,『人体科学』Vol.26,No.1, 2017年,13-23頁
船木祝、宮嶋俊一、山本武志、道信良子、粟屋剛:独居高齢者とともに生きる私たちの社会,『地域ケアリング』第19巻第9号,2017年, 52-53頁
船木祝:独居高齢者を支える社会について哲学・倫理学的に考える, 『地域ケアリング』第18巻第4号,2016年, 60-61頁
船木祝:弱い立場の人々を支える社会の倫理についての一考察―「強さの倫理」と「弱さの倫理」,『人体科学』Vol.25,No.1, 2016年,13-22頁
会費:300円
◆9月例会(第277回総合部会例会)
9月例会開催日が確定しました。皆様にはご迷惑をおかけしました。ご連絡させていただきます。万障繰り合わせの上ご参加ください。
日時:9月 22日(土) 13:00~15:00
会場:東洋大学 白山校舎 5208教室(5号館2階)
(通常の例会日および会場と異なりますのでご注意ください)
発表者:林 康弘氏(武蔵野大学)
演題:「人工知能(AI)社会の情報倫理」
司会:岩倉 孝明氏(川崎市立看護短期大学)
要旨:
ビックデータ・IoTとそれらを分析・活用する人工知能(AI)技術が社会に浸透する中において、センシングにより取得・蓄積される個人に関わるデータ・情報の取り扱いがさまざまな産業・学術分野で議論されている。
グローバル化の進展に伴う国家を超える規模の企業の登場により、これらの情報が一企業に集積・管理されており、知的財産権、意思決定、個人による自分自身のデータへのアクセス権、位置情報、プライバシーの侵害、情報漏洩、死後の個人データの取り扱いなど、論点は多岐に渡る。
人工知能(AI)社会の情報倫理として、(1)データがどのように取得・分析・活用されるのかというAI技術面、(2)世界における情報戦争(ハッキング、フェイクニュース)の状況、GDPRなどの個人情報保護に関する法的整備の状況、(3)レガシー(法、教育、常識)が与える人間の創造性の破壊と、新しい時代を切り開くイノベーション創出、3つの視点を取り上げ、人類が歩むべき方向性について議論する。
最近の業績:
Yuka TOYOSHIMA, Yasuhiro HAYASHI, Yasushi KIYOKI “A Method of Composition-Based Image Retrieval for Environment Visualization by Images and Spatio-Temporal Information”, International Electronics Symposium on Knowledge Creation and Intelligent Computing (IES-KCIC) Oct 2018 (Accepted).
Haruki Honda, Shiori Sasaki, Yasuhiro Hayashi, Yasushi Kiyoki “A Regional-Diversity-Corresponding Real Estate Information Search & Evaluation System”, International Electronics Symposium on Knowledge Creation and Intelligent Computing (IES-KCIC) Oct 2018 (Accepted).
Matsumoto Kanako, Shiori Sasaki, Yasuhiro Hayashi, Yasushi Kiyoki “A Bouquet Creation System for Sending “Kansei” Messages with Language of Flowers”, International Electronics Symposium on Knowledge Creation and Intelligent Computing (IES-KCIC) Oct 2018 (Accepted).
林 康弘 “大学情報リテラシーのためのルーブリック評価表とその支援ツールの開発”, 教育システム情報学会 第43回全国大会予稿集, 9月 2018
Yasuhiro HAYASHI, Daisuke OYOKAWA, Yasushi KIYOKI, Tetsuya MITA “An Information Providing Method To Express Train Service Situation By Combining Multiple Sign-logo Images”, Proceedings of the 16th European-Japanese Conference on Information Modelling and Knowledge Bases (EJC 2018), June, 2018.
会費:300円
◆7月例会(第276回総合部会例会)
日時:7月 7日(土) 15:00~18:00
会場:東洋大学 白山校舎 6218教室(6号館2階)
6月までの会場と異なっています。ご注意ください。
万障繰り合わせの上ご参加ください。
総合部会発表:中澤 武氏(明海大学)
演題: 「関係の中の自律」
司会:黒須 三恵氏(東京医科大学)
【要旨】
自律を育むことは、できるだろうか。もしも、自律を自己決定に等しいものと見なし、自分だけの考慮による自己責任の行為と考えるならば、そのような問いはそもそも意味をなさない。なぜなら、自己以外のあらゆる要素を排して自己完結した場に、育み育まれる他者関係の成立する余地はないからである。これに対して、自律は本来、他者に開かれ他者と結びつく関係性の構造に基づくと見る考え方がある。現代では、たとえばアクセル・ホネットの相互承認論などがそうした理論の代表であろう。ケアの倫理をこのような相互承認の理論的枠組みに基づいて考えることには意義がある。そこでは行為のあり方も倫理的価値も、ケアする者とケアされる者との間の相互承認関係の中で育まれ、具体的な倫理的関係性として現成するのだからである。
さて、倫理的概念の脱脈略的抽象化と普遍主義に基づくいわゆる「正義の倫理」に対して、ケアの倫理は、個的主体が形成される根源的な場の構造を問い直し、そこから倫理原則に新たな具体的意味を与える試みとなる。EUの「バルセロナ宣言」(1998年)を経て、バルネラビリティ(vulnerability)に配慮した新たな倫理原則の枠組み構築が今や国際的なレベルで求められている背景には、そのような具体的倫理への志向があると考えられる。「バルセロナ宣言」の議論では、自律・尊厳・統合不可侵(integrity)およびバルネラビリティという4つの概念を相互に結び合わせた新たな倫理的枠組みが検討されている。自律を育む倫理的枠組みを構築するためには、特に自己の身体をめぐる内外の状況とバルネラビリティとの関連を考慮する必要がある。本発表は、人間を理性のある感性的存在と見なす哲学的人間観に立ち、ケアの倫理およびバルネラビリティとの関連で、自律の具体的あり方を考える。
【最近の業績】
共著『尊厳概念のダイナミズム』(加藤泰史 編、法政大学出版局2017年)など.
論文「概念史研究:その意義と限界」(日本カント協会編『日本カント研究 カントと形而上学』理想社,第13巻2012年)など.
共訳書 マンフレッド・キューン著『カント伝』(春風社2017年)など.
監訳書 ディーター・ビルンバッハー著『生命倫理学:自然と利害関心の間』(法政大学出版局2018年)など.
参加費:300円
◆6月例会(第275回総合部会例会) 6月例会お知らせ案内チラシ
日時:6月16日(土) 15:00~18:00
会場:東洋大学 白山校舎 6217教室(6号館2階)
万障繰り合わせの上ご参加ください。
総合部会発表:蔵田 伸雄氏(北海道大学)
演題: 「『人生の意味』というカテゴリーと生命倫理」
司会:江黒 忠彦氏(元帝京平成大学教授)
【要旨】
「人生の意味」というカテゴリーは理論的な生命倫理・医療倫理の中では、自律・患者の利益・QOL・人間の尊厳といった概念ほどには重視されてこなかった。しかし近年、哲学的倫理学の分野で「人生の意味」は洗練された哲学的・形而上学的議論の対象として扱われるようになってきた(このような傾向の哲学は「分析実存主義」と呼ばれることもある)。「人生の意味」というカテゴリーは「幸福」(happiness, welfare, well-being)や「正しさrightness」また「利益」、あるいは「道徳性」moralityとは異なるものであるとされ、生命倫理の領域でも使用可能だと考えられている。実際「意味のあるmeaningful生」というカテゴリーは、自殺幇助・安楽死・尊厳死、治療停止・不開始、障害新生児の治療停止、生殖医療・出産、臓器提供、あるいはトランスヒューマニズム・エンハンスメント、さらに末期がんの告知、宗教的な理由にもとづく治療拒否等に関する議論でも用いることができるであろう。
しかし「意味のある生」という概念は濫用される可能性がある。「この患者は今後「意味のある」生を送ることができない」と医療者が判断することによって、患者の安易な治療停止や不開始(さらには医師による自殺幇助や「尊厳死」)が生じかねない。また患者自身が、自分の生を「生きるに値しない」と考える場合もある。「人生の意味」を医療倫理の現場で用いる場合は〈本来主観的なものであり、患者本人の視点から考えるべき「人生の意味」が、他者によって判断され、安易な治療停止に結びつく危険性〉と、その一方で〈患者本人が自分の人生に生きる価値はないと安易に判断する危険性〉に陥らないよう注意する必要がある。
このような危険性を回避するためには「人生の意味」を患者及びその家族等と医療者との間での対話を通じて構成されるもの、そして患者自身のナラティヴを通じて構成されるものとして理解する必要がある。本発表では上記のような危険性に留意しつつ、「人生の意味」というカテゴリーの生命倫理・医療倫理問題の分析のための有効性について検討したい。
(本発表は科学研究費補助金(基盤研究(B)(一般))16H0333706による研究成果の一部である)
【最近の業績】
“Guardians of Responsibility:Human Embryo Research and the Question of Human Dignity”in Alexandra Perry and C.D.Herrera(eds),New Perspectives in Japanese Bioethics, Cambridge Scholars Publishing,2015, pp.43-51
「同じ山に異なる側から登る―パーフィットの定言命法理解をめぐって」
『日本カント研究』No.18(日本カント協会編)知泉書館 2017年 73~88頁
「カント倫理学と生命倫理 「人間の尊厳」という価値」
牧野英二編 『新・カント読本』 法政大学出版局 2018年 267~278頁
参加費:300円
◆5月例会(第274回総合部会例会) 5月月例会案内チラシ
日時:5月12日(土) 15:00~18:00
会場:東洋大学 白山校舎 6217教室(6号館2階)
万障繰り合わせの上ご参加ください。
総合部会発表:山本 剛史氏(慶應義塾大学)
演題: 「カネミ油症と生命・環境倫理学」
司会:小阪 康治氏(元郡山女子大学教授)
【要旨】
カネミ油症とは、1968年頃から株式会社カネミ倉庫が製造したカネミライスオイルによる一連の中毒症状を指す。米ぬか油を製造する際の脱臭工程で使用されたPCBが加熱されたためにダイオキシンに変性し、しかもそれが米ぬか油に漏れて混入したことから発生した。過去の裁判では、カネカのPCB製造物責任や国の責任が認められず、カネミ倉庫の責任のみが認定された。しかしカネミ倉庫は社業が小さく余裕がないことを理由に賠償金の支払いに未だに応じていない。さらに、米ぬか油が自然環境を汚染せずに直接体内に入ったことから公害として認められず、2012年に「カネミ油症患者に関する施策の総合的な推進に関する法律」が成立したものの依然「認定患者」に対する公的救済が不充分であったり、油症患者から2世、3世の患者が生まれているにもかかわらず、直接食していない場合は「認定患者」に該当しないとされ公的な救済が受けられないなど、現在進行形の深刻な問題である。胎内を胎児の環境と考えた場合、特に2世、3世の問題はシーア・コルボーンらが『奪われし未来』で警告した内分泌かく乱物質の問題と関連している可能性がある。」(吉永明弘、福永真弓編『未来の環境倫理学』勁草書房、2018年、174-175頁。)
筆者はこのように当該書籍においてカネミ油症を「キーワード解説」に取り上げた。とはいえ、実のところカネミ油症にまつわる少なくとも50年に及ぶ経緯や問題は複雑さと深刻さを極め、このような短い文章では到底語りつくせないものがある。加えて、カネミ油症それ自体がすでに過去の問題として一般にはほぼ忘れられているという点において、患者及び関係者は非常に追い詰められた状況にある。本邦の生命倫理学はおおよそ1990年代から学問的体裁を整え、医学医療の向上に少なからず貢献してきたのであるが、一方でこうした社会悪については、澤田愛子先生をはじめとするごく一部の研究者を除き、沈黙を守ってきた。筆者もまた沈黙する一人であった。
生命倫理学においてカネミ油症を扱う場合、まずは基本的事項に関する啓蒙が必要と考えられる。そこで、筆者は以前「カネミ油症支援センター」で被害者の支援に取り組んでいる方から教えて頂いたことを交えて、日頃大学の講義で話しているのと大体同じスタイルでカネミ油症についてお話ししようと思う。これをきっかけに、生命倫理学の教科書や研究書にカネミ油症に関して必ず記載されるようになり、各先生方もまたご自分の講義等で取り上げることを通して、カネミ油症について一人でも多くの人間が関心を持ち、知識が普及するようになること、そして閉塞した事態を打開することにつながることを願っている。
【最近の業績】
<共著書>
海老原晴香、長町裕司、森裕子編『生命の倫理と宗教的霊性』ぷねうま舎、2018年(第2部序文、第6章「ハンス・ヨナスの倫理学における『乳飲み子』の意義」を担当)。
吉永明弘、福永真弓編『未来の環境倫理学』勁草書房、2018年(第1部イントロダクション、第2部イントロダクション、第6章「ハンス・ヨナスの自然哲学と未来倫理」を担当)。
<論文>
「自然哲学から倫理学へ ‐ ヨナス責任倫理学の形成と今後の環境倫理学の展望」『環境倫理』第1号、2017年、253~292頁。
参加費:300円
◆4月例会(第273回総合部会例会)
日時:4月8日(日) 16:00~18:00
会場:東洋大学 白山校舎 6217教室(6号館2階)
当日は運営委員会が12時から開催されます。会員であればどなたでも参加できます。
また、15時から年次総会が開催されます。
会員の皆様、万障繰り合わせの上ご参加ください。
総合部会発表:小館 貴幸氏
演題: 「ヴァルネラブルな存在(弱い存在)としての人間」(年間テーマ案、予定)
参加費:300円
◆3月例会(第272回総合部会例会)
日時:3月3日(土) 15:00~18:00
会場:東洋大学 白山校舎 6217教室(6号館2階)
発表:伊野 連氏(早稲田大学)
演題: 「加藤拓川の死生観」
司会:半田 栄一氏(鶴見大学短期大学部)
【要旨】
拓川(本名加藤恒忠、安政6(1859)~大正12(1923))は明治から大正にかけての外務官僚・政治家である。富国強兵期の日本外交を支えた偉人の一人であるが、今日では一般人にとって彼は「正岡子規の叔父」としての方がよく知られている。
私は子規の死生観について体系的に考察する途上で、当然のごとく拓川と出会った。彼は、貧苦のなか死病に喘ぐこの甥の、最大の恩人の一人であったからである。
拓川は伊予松山藩随一の名儒家大原観山を父とし、十代で亡父の遺命により上京、刻苦勉励して立身出世を遂げた。ベルギー大使ほかの外交官としての要職とともに、衆議院議員、勅撰貴族院議員、最晩年は病をおして故郷松山の市長を務め、凄絶ともいえる最期を遂げた。
彼は食道癌によって没するに先立ち、一切の固形食を受けつけぬ重症に陥った。数十日続く絶食の果て、1923年3月に覚悟の死を迎えた。
彼の主治医は我が国耳鼻咽喉科の創始者でもある賀古鶴所であった。そして文学愛好家には周知のように、賀古は文豪森鷗外の無二の親友であり、あの著名な遺書を代筆した人物である。
その鷗外は拓川に八ヶ月ほど早く1922年7月に没している。自らの死期を悟った鷗外は積極的な治療や投薬を一切拒み、いわゆる自然な死を受け容れて逝った。
拓川はそうした鷗外の死との対峙を、賀古を通じつぶさに聞かされていた。賀古が「医薬ヲ斥クル書」と呼んだ鷗外からの自らに宛てられた、決意表明ともいえる書簡を拓川に転送していた事実は、大いに注目すべきである。
賀古は親友鷗外が頑なに延命治療を拒否する姿勢に強く共感し、森一族をはじめとするあらゆる反対意見からひたすら鷗外を庇い続けた。そしてそれを共通の友である拓川が擁護してくれることを確信していたのである。
そして七ヶ月後には、今度は拓川が自らの死を悟ることとなる。拓川もまた、一切の延命を拒み、威厳ある最期を迎える。
二十一年前には心から愛おしんだ甥が脊椎カリエスの苦しみの果てに燃え尽きるように死んでいる。子規についても自身についても特別に語ることが無かった拓川の心中がいかなるものであったか、数少ない史料をもとに推察する試みがなされるべきである。
なお、今回は特に鷗外の死生観を概観することから、その賀古への影響、さらには拓川への影響へと敷衍させていく手法を採る。重要な先行研究を以下にいくつか示しておく。
・山崎一穎「鷗外――その終焉をめぐる考察」(『跡見学園女子大学国文学科報』25、1997年3月、pp. 76-95)
・成澤榮壽『伊藤博文を激怒させた硬骨の外交官加藤拓川 帝国主義の時代を生き抜いた外交官とその知友たちの物語』高文研、2012
【最近の業績】
『生命の倫理 入門篇』三恵社
『ドイツ近代哲学における藝術の形而上学』リベルタス出版
『哲学・倫理学の歴史』三恵社
『現代美学の射程』三恵社
参加費:300円
◆2018年1月例会(第271回総合部会例会)
日時:1月6日(土) 15:00~18:00
会場:東洋大学 白山校舎 6217教室(6号館2階)
発表:秋葉 峻介氏(一橋大学社会学研究科)
演題: 「尊厳死と死ぬ権利、自己決定権」
司会:小館 貴幸氏(立正大学)
【要旨】
2012年7月、「尊厳死法制化を考える議員連盟」によって「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」 が提出されて以来、日本における尊厳死の法制化の動きは足踏み状態が続いている。法制化の動きそのものが停滞しているものの、一方では尊厳死、あるいはその法制化について関心が高まってきていると考えてよいだろう。そこで今回の報告では、こうした背景に配慮しつつ、尊厳死と死ぬ権利(あるいは死の自己決定権)との関係について焦点をあてて論点を整理し、批判的に考察していくこととしたい。
というのも、尊厳死法制化の動きや尊厳死をめぐる出来事と死ぬ権利や自己決定権という考え方とはしばしば並列して論じられる。しかし、死ぬ権利とはなにか、そして、そもそも死ぬ権利なるものは尊厳死を支えるものなのか、ここで一度再考してみる余地があるように思われる。たとえば、1967年のカレン事件においても当初カレンの養父から求められていたのはプライバシー権にもとづく執拗な治療の停止であって、死ぬ権利ではなくかったのであり、このケースにおける尊厳死の争点はあくまでもプライバシー権に関するものだったのである。にもかかわらず、どういうわけか日本においてもカレン事件は死ぬ権利が争点であったかのような理解も少なくない。この事件以降、尊厳死と死ぬ権利とは並列して論じられるようになったと言っても過言ではないだろう。とはいえ、この事件は死ぬ権利による尊厳死を求めたものでもないし、プライバシー権から死ぬ権利を引き出せると示したものでもない。ではなぜ尊厳死と死ぬ権利とは並行して論じられているのか。
以上のことを踏まえ、今回の報告では尊厳死と死ぬ権利、自己決定権との関係を考察してみたい。
参加費:300円
◆2017年10月例会(第269回総合部会例会)
日時:10月7日(土) 15:00~18:00
会場:東洋大学 白山校舎 6219教室
発表:森元美代治氏(NGO IDEAジャパン代表、多磨全生園 元入園者自治会長)
演題:「ハンセン病を生きて ~尊厳回復の願いと私のたたかい~」
司会: 尾崎恭一氏(東京薬科大学)
要旨:ハンセン病には三つの迷信があります。一つめは「不治であること」、二つめは「恐ろしい伝染病であること」、三つめは「遺伝病であること」です。これらの迷信に基づいて、日本らい学界・国が犯した非科学的、被人権的な終生隔離のハンセン病対策・無らい県運動に翻弄され、人生被害を被った患者や家族の痛みについて、思いのたけを述べたいと思います。偏見や差別の根強い社会に多くを期待することはできません。「われわれ自身が変わるから社会が変わる」と信じて、価値ある人生にしようと思って行ってきた諸活動についても紹介したいと思います。
プロフィール:
1952年 中学3年の時にハンセン病と診断され、国立奄美和光園に隔離入園
1959年 岡山県邑久高校新良田教室卒業
大学進学のため、東京都東村山の多磨全生園に転園
1962年 慶応大学法学部法律学科に入学
1966年 同大学を卒業、都内金融機関に就職
1970年 ハンセン病の再発により、多磨全生園に再入園
1999年 東京地裁ハンセン病訴訟原告団事務局長となる
2002年 多磨全生園を退園
2004年 特定非営利法人IDEAジャパン設立 理事長となる
参加費:300円
◆9月例会(第268回総合部会例会)
日時:9月2日(土) 15:00~18:00 会場:東洋大学 白山校舎 6313教室
発表:足立大樹氏(ホームケアクリニック横浜港南) 演題:「在宅医療からの学びと問い」
司会:冲永隆子氏(帝京大学)
要旨:
在宅医療とはどのようなものだろうか。多くの方々にとって在宅医療は、例えば先日亡くなった小林麻央さんの事例のように、終末期を自宅で過ごすための医療として想起されるかも知れない。終末期医療はもちろん在宅医療の役割の一つである。暮らしの場で最期の時を安寧に過ごすために、在宅緩和医療の技術は非常に重要である。しかし、私たち在宅医の担う役割は、終末期だけにとどまるものではない。
在宅医療の適応は「通院困難な患者」であり、それはすなわち身体的あるいは精神的に何らかの障害を有する人々が対象となるということである。そのような人々の自宅ベッドを、疾病治療を専らとする病院ベッドのように扱うことが在宅医療ではない。個人が障害を有しながらも平穏な日常生活を送ることが出来るように薬剤を処方し、必要な医療処置を行い、あるいは栄養や介護方法について助言を行うこと。医療の範疇での支えだけでは充分でない場合に、適切な支援窓口への連絡を図ること。生活支援に関わる多くの職種の方々と共に、様々な手段を用いて、障害を有する個人の暮らしの中に生じる課題を軽減しあるいは解消しようとすることが、在宅医療の主目標なのである。
ところで、熊谷晋一郎の言を借りて、障害とは少数者と社会の間にあるズレだとするならば、障害を有する個人に与えられる医療の選択肢が在宅医療しかない社会とは、誰もが生き易い社会とは言えないだろう。実際、高齢となり障害を有し、自宅や施設に半ば閉じ込められた方々の口から死を望む呟きが漏れ出ることは、決して珍しいことではない。超高齢社会・多死社会を背景として、国は盛んに在宅医療の推進を謳っている。しかし、あらゆる人が当事者となり得る障害という観点からすれば、それは本質的解決策とは言えない。むしろ、在宅医療を縮小出来る社会を構築しようとすることこそが、私たちの目指すべきところではないだろうか。
発表者プロフィール:
1997年3月、金沢大学医学部卒業。同年5月、関東逓信病院内科。1999年4月、東京大学医科学研究所附属病院血液・腫瘍内科。2003年3月、東京大学大学院医学系研究科修了。2004年4月、横浜市栄区に公田クリニック開設。2012年10月、診療所を横浜市港南区に移転、ホームケアクリニック横浜港南に名称変更。診療所開設以降、一貫して横浜市南部地域での在宅医療に従事している。
参加費:300円
◆7月例会(第267回総合部会例会)
日時:7月1日(土) 15:00~18:00 会場:東洋大学 白山校舎 6217教室
発表:中澤 武氏(明海大学) 演題:「なぜヴルネラビリティは倫理原則たり得るのか?」
司会:調整中
要旨:人間は、理性を備えた感性的存在である。合理的な認識を構成し、自律した意志を発揮して理念を追い求める一方、変化に遭ってはしばしば受動的であり、傷つきやすく、依存的である。本発表は、このような哲学的人間観に立ち、ケアの倫理との関連でバルネラビリティ(傷つきやすさ、脆弱性)の倫理原則としての意義について考えたい。
ケアの倫理は、1980年代にキャロル・ギリガンが実践理性中心の形式的普遍主義に異議を唱えて以来、バルネラビリティを一つの軸として展開してきた(E.F.キティ、J.トロント等)。一方、バルネラビリティに配慮した倫理理論は、EUの「バルセロナ宣言」(1998年)やユネスコの「生命倫理と人権に関する世界宣言」(2005年)等を経て、今や国際的なレベルで関心の的となっている。
たとえば、ユネスコの「生命倫理と人権に関する世界宣言」(2005年)は、第8条で「科学知識、医療行為および関連する技術を適用し、推進するにあたり、人間のバルネラビリティが考慮されるべきである」と述べている。また、このユネスコ宣言の背景をなしているEUの「バルセロナ宣言」(1998年)では、生物医学とバイオテクノロジーの急激な進展という現実に直面して、今後、人間性の将来に何を望むかという問題意識のもと、従来のアメリカ流の生命倫理とはまた違う、新しい倫理原則が探究されている。
この場合、特に従来の自律重視の生命倫理に対して、自律・尊厳・統合不可侵(integrity)と並んで、バルネラビリティの概念が将来の人間性保護を意図した規範的枠組みの構成要素とされていることは特徴的である。「バルセロナ宣言」によれば、これらの四つの概念は決してばらばらに独立したものではなく、相互依存の関係にあるとされ、特にバルネラビリティを中心として、他者への配慮を重視したひとつの体系をなすと考えられる。バルネラビリティは、自律・尊厳および統合不可侵と分かちがたく結び合った倫理原則としての役割を期待されているのである。
バルネラビリティという語は、一般に打撃を受けて生じた傷害・苦痛・損失など、身体的・精神的なダメージを指すラテン語に由来する。転じて現代では、この語は身体・精神だけに留まらず、広く社会・環境との関わりの中で様々な具体的状況に用いられる。そうした状況では、一つの統合された組織が、物理的・心理的等の力の働きで変化を被り、脅威にさらされる。もしも、この脅威がある限度を越えて強まり、組織がその変化に対応しきれなければ、組織の統合は損なわれ、組織外部との境界領域には、たとえば痛みや傷のような可逆的・不可逆的な変異が生じるだろう。
このような意味でのバルネラビリティは決して一部の特別な人に限られた事柄ではない。むしろ、ここで問題になっているのは、人間が感性的存在として本来バルネラブルな存在であり、出遭われた脅威(たとえば病気・障碍・老化・死など)を受けとめきれない場合には容易く傷つくという普遍的脆弱性への洞察なのである。
とはいえ、そのような意味でのバルネラビリティに、他者への気遣い(ケア)を求める倫理原則としての規範的な意義が認められる根拠は何か。バルネラビリティは、気遣いの行為に対して倫理原則たり得るのだろうか。あるいは、単に、気遣いとは、たとえば眼前で苦しむ他者を看過できない恵まれた素質の表れに過ぎないのか。もしくは、適切な教育によって醇化された倫理的感受性の賜物というだけのものではないのだろうか。
【最近の業績】
「感性的認識の学としてのエステティカ――18世紀ドイツ啓蒙と美学の条件」加藤泰史(編)『大学と学問の再編成に向けて』(行路社2012年所収)他。
〔研究報告〕「ニューロエンハンスメントの倫理問題――ドイツ脳神経倫理学の視点――」(北海道生命倫理研究 vol. 4、2016年所収)他。
〔共訳書〕ミヒャエル・クヴァンテ『人間の尊厳と人格の自律 生命科学と民主主義的価値――生命科学と民主主義的価値――』(法政大学出版局2015年)他。
〔翻訳&改題〕ディーター・ビルンバッハー「「生命の尊厳」とは、どういう意味か」(思想 no. 1114、岩波書店2017年2月所収)他。
参加費:300円
◆6月例会(第266回総合部会例会)
日時:6月3日(土) 15:00~18:00 会場:東洋大学 白山校舎 6217教室
発表:長島 隆氏 演題:「『忘れられる権利』と同意撤回権」
司会:江黒 忠彦氏(帝京平成大学)
要旨:2013年に情報倫理の基本を構成した二つのガイドライン、OECDガイドラインと95/EU指令が改正された。そのなかには、OECD個人情報保護に関する8原則が5原則に整理されるなど新しい展開がみられるとともに、最近の日本でも問題になったJRのスイカ情報の一方的な売買などで明るみに出たいわゆる「ビッグデータ」と「パーソナルデータ」の商業利用の問題が浮かび上がる中で、個人情報保護をどのように確保するかという問題が大きな課題となっている。
「忘れられる権利」は一度同意すれば、半永久的に使用可能な状態になっている現状にたいして、同意撤回権の問題を浮かび上がらせている。つまり、今回の解決はまさにオプト・アウト方式を医療倫理の場面に導入することによって、医療情報におけるビッグデータ、パーソナルデータの使用をいわば「自由」に行うことを認めると同時に、個人情報を、われわれは自ら守ることを要求されることになっていることを意味している。 私自身は、インフォームド・コンセントをいう場合に、同意撤回権を明確に指摘する方向を取ってきているが、今回の改正は、まさにこの同意撤回権こそが我々が個人情報を保護するカギになっていることを示している。
今回の報告では、二つのガイドラインの改正の基本問題を解明し、医療上の情報倫理の問題として、「忘れられる権利」と同意撤回権に問題を収れんさせて論じてみたいと思う。
参加費:300円
◆5月例会(第265回総合部会例会)
日時:5月13日(土) 15:00~18:00 会場:東洋大学 白山校舎 6217教室
発表:黒須 三恵氏(東京医科大学) 演題:「臨床研究に関する規制の最近の動向」
司会:島田 道子氏(鶴見大学)
要旨:2015年9月に「個人情報の保護に関する法律」が改正された。この改正により2016年11月に個人情報の保護に関するガイドラインが、2017年2月に「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針」と「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針」が改正された。2017年3月に「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針 ガイダンス」の改正と、この改正による研究責任者向けチェックリストなどが公表された。2017年5月末にこれら全てが施行されることになった。この間、臨床研究に関する法案が国会に提出されていたが、2017年4月に罰則を伴う「臨床研究法」として成立した。この法により製薬企業から資金提供を受けた臨床研究等(「特定臨床研究」)の実施計画書は、厚生労働大臣の認定を受けた認定臨床研究審査委員会での審査と厚生労働大臣への提出が義務付けられた。
参加費:300円
◆2017年4月例会(第264回総合部会例会)
日時:4月9日(日) 16:45~18:00 会場:東洋大学 白山校舎 6102教室
発表:小館 貴幸氏(立正大学) 演題:「いのちの尊厳と死」
要旨:
今回の報告では、2017年度関東医学哲学・倫理学会(以下、本会と略記)の年間テーマを提示し、その趣旨説明を行うこととする。周知のとおり、第36回日本医学哲学・倫理学会全国大会が11月に帝京科学大学千住キャンパスで開催される。今年度は関東での開催ということで、本会もこれに連携することにより、本会の議論を全国へと発信する可能性も開け、本会のさらなる充実が図れるだけでなく、大会を盛り上げることにも貢献できるであろう。そこで、全国大会のテーマ「いのちと向き合うケア」、大会シンポジウムのテーマ「ケアの問題としての『尊厳死』―尊厳あるいのちをいかに支えるか?」を踏まえて、本会の2017年度の年間テーマを「いのちの尊厳と死」として提示することにする。
そもそも私たちが現在置かれている状況はいかなるものであろうか。2003年には死亡者が100万人を越え、2005年には死亡者が出生者を上回り、「大量死の時代」へと突入した。また、高齢化率は26.7%(2016年確定値)となり、既に超高齢社会となっている。団塊の世代が75歳となる2025年問題も決して遠い未来の話ではない。このような状況下では、死を迎えるための届出施設も病床数も圧倒的に不足しており、終の棲家を医療施設に求めるのは難しく、死にゆく者は「死に場所難民」・「看取り難民」とならざるを得ない。そこで必然的に在宅での死や介護施設での看取りが増加せざるを得ないのだが、介護の担い手は慢性的なマンパワー不足であり、「介護難民」となることが目に見えている。ここから孤独死の問題、安楽死や尊厳死の問題、さらにはケアの限界から死が強制される事態(死の義務化)が容易に想像しうる。私たちは世界内存在(さらに言うならば状況内存在)として生きるかぎりにおいて、これらの状況を無視して生きることはできない。
上記のハード面に対してソフト面では、疾病構造の変化による生活習慣病の増加により、感染症時代の「生か死か」という二者択一ではなく、「病を抱えつつどう生きるのか」という病との共存の時代となり、個々人の自己決定の重要性やそれを支えるケアのあり方が大きく問われている。誰もが死への存在であることは疑いないが、その一度限りの自らの死をどのように迎えるのか、愛する者の死をどう支えるのかは、各自にとっての一大事であろう。ここにいのちの尊厳が問われる。「死にゆくこと」は同時に「生ききる」ことでもありうる。2015年から公文章が「終末期医療」が「人生の最終段階」という言葉に変わったのは、「死にゆくこと」から「最期まで生きること」に軸足を移したためである。
「いのちの尊厳と死」というテーマは、一人称・二人称に限定されず、喫緊の課題から目を逸らすことなく、広く様々な問題を包括することができるゆえに、今後にむけての活発な議論の場となれば幸いである。
参加費:300円