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『医学哲学と倫理』第11号(2013年度)

目次

・林 大悟 「『人の死』問題と倫理学」1-7頁[PDF](2013年7月22日)

・古関明彦 「再生医療は産業たりうるか?」8-15頁[PDF](2013年7月22日)

司会のまとめ(田村京子)16頁[PDF](2013年7月22日)

・田村京子 「ヒトの要素をもつ動物を作製することはどこまで許されるのか?」17-38頁[PDF](2013年10月30日)

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2012年度の総合部会

2012年度の年間テーマ:高齢者医療と自己決定


◆3月例会(第221回総合部会例会)

日時:3月2日(土) 15:00~17:30
会場:上智大学 2号館6階ドイツ語学科会議室

演者:有馬 斉 氏(司会 村松 聡 氏)
演題:人格の要求する敬意は自殺幇助や安楽死と矛盾するか
要旨:
終末期医療の倫理について報告する。中でも非帰結主義を前提に積極的安楽
死(および自殺幇助)正当化論を展開したFrances KammとJeff McMahanの議
論に注目する。
KammやMcMahanを含む非帰結主義者の多くは、人の生命を破壊することの
是非を論じる際、(a)その生命が主体にもたらしている利益や害の価値と、(b)そ
の生命の主体がそれが人格であるということのために有する価値とを区別する。
そこで、人格を相手とする場合はそれにふさわしい行為規範があり、これは当の
人格に及ぶ利益や害の量によってだけ決まることではないと主張する。とくに、
人格の生命を破壊することは、仮にそうすることが殺される本人や周囲の人々
の利益に叶うとしても許容されない場合があり、その根拠は殺される対象が人
格であるということにあるとされる。
KammとMcMahanはいずれもこの枠組を支持すると同時に、実際にこれを応
用して安楽死・尊厳死の是非を論じている。また、人格が対象であってもなお
積極的安楽死と自殺幇助の正当化できる場合があると結論する。
本報告ではかれらの議論の強度を検討する。また、帰結主義者(功利主義者)
による積極的安楽死正当化論との比較を通して、かれらの立論の特徴と、終
末期医療の倫理をめぐる論争におけるその意義が明らかになるようにしたい。
*主な参考文献:①F. Kamm, “Physician-Assisted Suicide, Euthanasia,
and Intending Death,” in M.P. Batting et al. eds., Physician Assisted Suicide:
Expanding the Debate, Routledge, 1998、②J. McMahan, The Ethics of Killing,
OUP, 2002

所属:横浜市立大学国際総合科学部
専門:哲学、倫理学

参加費:300円


◆2月例会(第220回総合部会例会)

日時:2月10日(日) 15:00~17:30
会場:上智大学 2号館6階ドイツ語学科会議室
演者:岩倉 孝明 氏(司会 宮嶋 俊一 氏)
演題:医療における隠喩使用の可能性
要旨
かつて「病い」は文学、美術等における有力なテーマであった。これに対し、
スーザン・ソンタグが「隠喩としての病い」他の著作で、病いを隠喩として語る
ことを厳しく批判したことはよく知られている。結核、癌、エイズなどの病いに
ついて、それが純粋に医学的に意味する以上の含意をこめて語ることを批判した
のである。
しかしこのように超然としていることは、常に可能というわけではない。また
後にソンタグ自身が認めた通り、隠喩は私たちの言語に深く根を下ろしており、
それを言語から取り去ることは困難である。さらに隠喩は巧みに使えば、ポジティ
ブな力をもちうる。それならば隠喩と「うまくつき合う」道を考えることが賢明
であろう。
結論を先取りすれば、隠喩の使用は、医師・医療者の物語と患者の二つの物語
の間の調停を行うための一つの有効な言語的仕組みになりうるのではないか。た
とえば医師が、患者の物語を理解した上で、巧みな仕方で病いその他について隠
喩を用いるとしたら、医師は医師としての物語を維持しつつも、患者の病いにつ
いて、患者にも受け入れられうる語りを行うことができるのではないか。
隠喩は、ものの見方(病いの見方)を構成し直す力がある。また隠喩は、聴者
に対して、文脈・状況から話者の意図(意味)を理解することを要求する。しか
しその解釈には、一定の開放性、つまり聴者の主体性が生きるような解釈の自由
の余地を残している。その解釈の可能性の振幅の大きさの故に、隠喩はネガティ
ブにもポジティブにも、聴者に少なからぬ影響を与え得る。これは話者と聴者に、
想像力の活動を許し、科学(生物医学等)の枠組みに沿ったな言語使用からの一
定の解放を認めることにつながる。
こうした隠喩使用の特性を考えながら、医療者と患者の物語が交差する場面で、
隠喩がどんな力や意義をもちうるか。この発表ではこうした点をめぐって考察し
てみたい。

所属:川崎市立看護短期大学
専門:生命倫理学・哲学

参加費:300円


◆1月例会(第219回総合部会例会)

日時:1月12日(土) 15:00~17:30
会場:上智大学 2号館6階ドイツ語学科会議室

演者:兼松 誠 氏(司会:山本 剛史 氏)
演題:ハンス・ヨナスの責任倫理の射程--倫理学の方法論および限界について
要旨:
ハンス・ヨナスは生命倫理学や環境倫理学といった応用倫理学の分野でしばし
ば言及されてきた。それでは彼の主張した「責任の倫理」は応用的な倫理なのだ
ろうか?彼の注目のされ方とは対照的に、彼の哲学は形而上学や宇宙論を常に志
向していた。そして彼は形而上学的もしくは宇宙論的根底から倫理学が切り離さ
れていることに危機意識を持っていた。すなわち、彼の課題の一つは倫理学をニ
ヒリズムから救う事であったと言ってよい。彼はそれをどのように論じようとし
たのかを、今回の発表では議論したい。特に、倫理学の方法論としての責任、そ
して倫理学の限界としての責任という観点から、ヨナスの責任倫理学の奥行きを
提示できたらと考えている。倫理学の限界という後者の観点は、生命倫理学批判
として重要な意味を持っているはずである。

専門:倫理学
所属:聖学院大学アメリカ・ヨーロッパ文化学研究科博士後期課程

参加費:300円


◆12月例会(第218回総合部会例会)

日時:12月1日(土)15:00~17:30
会場:東洋大学 白山校舎6306教室(6号館3階)

演者:長島 隆 氏(司会:小松 奈美子 氏)
演題:<遠隔医療>の現在-個人情報保護法成立後の展開とその問題点
要旨:
すでによく知られているように、医療情報に関わる問題として「電子カルテ」の現場への導入、「遠隔医療」の展開など、医療情報をめぐる動きは急展開してい る。本発表では、「遠隔医療」に絞って問題を解明していくことにしたい。問題は、この医療情報は「インティミットな情報」であり、この保護に関してはきわ めて慎重に行われなければならないことである。2003年に日本においてもグローバルな動きと連動して、「個人情報保護法」が制定された。この法制定に よって、状況は変わったのかどうか、それが大きな問題となる。
とりわけ、E-Mailの安全性は、以前と変わらない状況にあり、ドイツでは、医療情報に関して、メイルを利用する際のガイドラインが10年以上前に制定 されている 。だが、日本では、このようなメール利用のためのガイドラインさえも制定されておらず、「暗号化」という技術的な防衛に任されているだけであるように見え る。
今日、「個人情報保護法」によって、「遠隔医療」は急速に普及される動きが見えるが、果たしてそれで防衛可能であるかどうか。
本発表では、急速に進展させられている「遠隔医療」計画が、はたして、患者個々人の「医療情報」の保護という観点から見て、「個人情報保護法」制定という新しい段階で、それにふさわしいヴァージョンアップがなされているのかどうか、この点の分析を行うことにしたい。

専門:哲学、ドイツ観念論における自然哲学(ヘーゲル、シェリングを中心とする)および社会哲学の研究
所属:東洋大学文学部哲学科教授 東京薬科大学客員教授

参加費:300円


◆11月例会(第217回総合部会例会)

日時:11月3日(土)15:00~17:30
会場:上智大学2号館6階 ドイツ語学科会議室

〇第1報告

演者:冲永 隆子 氏(司会:五十子 敬子 氏)
演題:小児脳死臓器移植の倫理的課題
要旨:
本発表では、1)わが国の臓器移植法改正(2010年7月施行)における議論や、2)国内初の15歳未満児童からの臓器摘出(2011年4月)、また富山 の6歳未満児童からの臓器摘出(2012年6月)での議論を通じて、3)「犠牲を伴う医療“Medical Care involving sacrifice”」のあり方を問い、「思いやりの医療“Compassionate Medical Care”」とは何かを考える。
1)周知のように、今回の法改正では、15歳以上というドナーの年齢制限の撤廃によって、家族の書面により、15歳未満児童でも臓器提供が可能になった。 脳死の子どもに向けられる法改正前からの懸念は、「長期脳死」の子どもの存在、被虐待児童からの臓器提供の可能性等であるが、各種の団体の国会への働きか けは力が及ばず、最終的に脳死の子どもを法的に「死体」とみなす条文を含む臓器移植法が可決された。
2)法施行から1年経った2011年4月12日に国内初の15歳未満児童(報道では「交通事故による死」)からの臓器提供が報道されたが、実際にドナー少 年の死は「交通事故による死」ではなく、「列車への飛び込み自殺」によるものだった。2012年6月の6歳未満児童からの臓器提供に関するマスコミ報道に おいても、死因は「事故」だとされている。法改正前から懸念されていた倫理問題が現実のものとなり、小児移植医療の背後に潜む闇の部分が浮き彫りとなっ た。
3)悲しみの中で臓器提供を決断したドナー両親の思いと、移植しか治療法のないレシピエントとその家族の苦しみを受け止めながらも、死因が追求されずに 「思いやりの医療」として讃美される現状について、今一度考えていきたい。「救われるいのち」のために「棄てられるいのち」が必然となる、犠牲を伴う脳死 移植の現状と、そこにかかわる隠された弱者(脳死の子どもとその家族)の痛みや苦悩に多くの人々がどう向き合っていくのか。本発表では、小児脳死移植の倫 理的課題を検討し、そこにおけるいのちの矛盾とその苦悩を私たちがどう受け止め、支えていくのかの議論を共有していきたい。

専門:生命倫理学
所属:帝京大学医療技術学部

〇第2報告

演者:石田 安実 氏(司会:五十子 敬子 氏)
演題:インフォームド・コンセントにおける「緩やかなパターナリズム」は可能か
要旨:
インフォームド・コンセントに対するアプローチとして、近年では、「情報開示モデル」ではなく「会話モデル」がよしとされる。前者の一方向コミュニケー ションでは、患者の希望・価値観・自己決定などが抑圧されがちになり、それとは対照的に、後者のモデルの双方向コミュニケーションにおいては、インフォー ムド・コンセントにとって重要な患者の「自律性」がより尊重される。一方向コミュニケーションから双方向コミュニケーションへ、患者の「自律性」の抑圧か ら尊重へという流れ、それは確かに好ましいものであろう。
しかし、双方向コミュニケーションの「会話モデル」は、医師・患者の立場間の対等的・対称的関係を保証するものではない。むしろ、医師-患者間関係につい てのさまざまな分析は、その関係が本質的に非対称であることを明らかにする。つまり、「会話モデル」によって双方向コミュニケーションが確保されても、そ の関係の非対称性は避けられない。また、「会話モデル」は、実際の治療行為決定の文脈や裁判での再現性を考慮すると、実用的であるとは言い難い側面もあ る。本発表は、医師-患者間の本質的な非対称性を踏まえ、しかも現実の適用においてより実用的なモデルとして、「緩やかなパターナリズム」モデルを提示す る。それは、医療提供者側が患者の希望・価値観・背景を完全には知り得ないということを認める点で「パターナリズム」であり、医療提供者側が情報の開示に おいて患者側からのいかなる質問にもオープンでなくてはならないという点で、それは「緩やか」なのである。

専門:哲学(特に、心の哲学、認識論)、倫理学
所属:横浜市立大学非常勤講師


◆10月例会(第216回総合部会例会)

日時:10月6日(土)15:00~17:30
会場:上智大学2号館6階 ドイツ語学科会議室

演者:田村 京子 氏(司会:黒須 三惠 氏)
演題:生体臓器移植の倫理

要旨:
本発表の目的は、生体臓器移植が医療として倫理的に正当であると認められるための要件を明確にすることである。
一般に、生体臓器移植は脳死・死体臓器移植ができないなど「やむをえない場合」に例外的補完的に行われるものと位置づけられている。だが、日本では、移植 医療が始まって以来、一貫して、脳死・死体からの提供臓器のよる移植件数より、生体移植の方が圧倒的に多い(脳死からの提供でなければ移植されない心臓を 除く)。脳死・死体臓器は本人あるいは家族の意思による人道的精神に基づく非指定提供であり、一旦社会へ提供され、社会的資源とみなされて日本臓器移植 ネットワークにより公平に配分されるのに対して、生体臓器提供は本人の意思による家族への指定提供であり、実施は各医療機関にまかされている。脳死・死体 移植については脳死を人の死とみなすかどうかを中心に論じられ法も制定されたが、これに比較すると、生体臓器移植は家族内の私的な出来事であるためか、あ まり論じられてこなかった。
発表では、臓器売買の禁止を前提として、以下の3つの要件について考察する。
1. 生体臓器提供は義務を超えた行為であること。
2. 生体臓器提供はドナー候補者の自由意思による提供でなければならないこと。そのさい、家族内での提供圧力に抗して、いかに自由な意思決定ができるかを考える。
3. レシピエントの利益とドナーの利益が、レシピエントの不利益とドナーの不利益を凌駕するという条件を満たしていること。

専門:倫理学
所属:昭和大学富士吉田教育部


◆9月例会(第215回総合部会例会)

日時:9月1日(土)14:30~16:30
会場:上智大学2号館6階 ドイツ語学科会議室

演者:近藤 弘美 氏(司会:石田 安実 氏)
演題:リベラル優生学における問題―他者危害の原則の適用に関して―

要旨:
本発表では、近年急速な発展を遂げている遺伝子技術の使用に関する一つの立場を考察する。その立場とはリベラル優生学(または新優生学)と呼ばれるもので ある。リベラル優生学は、親が自ら進んで自分の子供の遺伝子操作をすることは基本的に許されると主張する。このリベラル優生学に対して、他者危害の原則の 観点から検討を加えたい。
まず、リベラル優生学の歴史とその特徴を概説する。リベラル優生学は、1990年代後半からヒトゲノム計画の実施や生殖技術の向上を背景に現れた。旧来の 優生学との比較を踏まえて、優生学とリベラル優生学の違いなどを考察しながら、リベラル優生学の特徴を述べる。次に、リベラル優生学を支持する生命倫理学 者であるニコラス・エイガーの議論を取り上げる。エイガーは、他者危害の原則を前提とした議論を行っている。すなわち、生まれてくる子供のライフ・プラン の選択を妨げない限り、基本的に親が子供の遺伝子操作をすることは道徳的に許されると彼は論じている。このエイガーの主張は、一定の制約を設けた上での親 の選択による子供の遺伝子操作を認めており、穏健な主張だと言えるかもしれない。しかし、その主張にも問題があることを最後に指摘したい。その問題とは、 ①生まれてくる子供に行う遺伝子操作の是非を議論する際には、他者危害の原則が適用できないこと、②他者危害の原則が正しいと言えるために根拠となる議論 が欠けていることの二点である。

専門:倫理学、生命倫理学
所属:お茶の水女子大学


◆7月例会(第214回総合部会例会)

日時:7月7日(土)15:30~17:30
会場:上智大学2号館6階 ドイツ語学科会議室

演者:小出 泰士 氏(司会 水野 俊誠 氏)
演題:フランスの終末期医療について

要旨:
フランスでも1960年代にはすでに、終末期医療の問題が社会の関心事となっていた。しかし、1994年のいわゆる生命倫理3法においては、終末期医療に 関しては立法化されなかった。そのため、終末期医療については、生命倫理のそれ以外の問題とは別個に検討され、立法化された。
1999年の「緩和ケアを受ける権利を保証するための法律477号」において、緩和ケアと寄り添いを受ける患者の権利が認められた。2002年の「患者の 諸権利及び保健制度の質に関する法律303号」においては、「いかなる医療行為もいかなる治療も、患者の情報を与えられた上での自由な同意がなければ実施 することはできないこと」が規定された。つまり、患者が治療を拒否または中止する意思を示した場合、たとえそのことが患者の生命を危険にさらす可能性が あっても、「医師は患者の意思を尊重しなければならない」ことが規定された。また、成人の患者は、自分の意思を表明できなくなったり必要な情報を受け取る ことができなくなったりした場合に備えて、「信任された代理人」を指名することができるようになった。
そうした経緯を経て、2005年に、フランスの尊厳死法に当たる「患者の諸権利及び生命の終わりに関する法律370号」が制定された。フランスでは、患者 の意思に基づく治療中止による消極的安楽死が容認された。しかし、近隣のオランダ、ベルギーなどとは異なり、積極的安楽死は認められていない。故意に患者 の生命を短縮することは、医師の基本的倫理原則に反するとの考えからである。そのかわり、緩和ケアを受けることを患者の権利として認め、苦痛をはじめ、患 者の終末期の状態をコントロールすることができれば、積極的安楽死を要請するような状況はかなり回避できるのではないかと考えている。
発表では、以上のようなフランスの終末期医療に対する考え方を詳しく紹介し、それについて検討したい。

参考文献:拙論「第7章 仏語圏の生命倫理」『シリーズ生命倫理学 第1巻』
(丸善、2012年)

専門:倫理学、生命倫理学
所属:芝浦工業大学


◆6月例会(第213回総合部会例会)

日時:6月2日(土)15:30~17:30
会場:上智大学2号館6階 ドイツ語学科会議室

演者:荒川 迪生 氏(司会:今井 道夫 氏)
演題:患者への日常的、個別的、文書による診療情報提供
    ―患者と医師の双方における負担と利益、患者の自己決定への有用性を考える-
要旨:
電子機器による診療記録の保存能力は飛躍的であるが、診療録自体は依然として粗雑で断片的で、整理が遅滞している。診療情報整理の基本のひとつは、初診 時からの診療を概括し、実用的で適切に要件を満たした診療情報の要約(サマリー)作成である。これはかかりつけ医自身の個人内診療の深化を図る垂直的分析 である。もうひとつは、かかりつけ医と患者・対診医・薬剤師・医療スタッフ間で、診療情報のサマリーを共有することである。これは関係者個人間の診療コ ミュニケーションを図る水平的分析である。とりわけ、患者中心の診療情報共有が、患者の自己決定に貢献すると考える。
本報告の目的は「外来診療の要約」の様式を標準化し、年1回更新する「年刊サマリー」を患者に提供し、併せて健康管理手帳に診察所見、各種検査所見を網羅した診療内容を開示することの実用性と有用性を分析することである。
年刊サマリーは労力と時間のかかる作業ではあるが、かかりつけ医は自身の診療補強や修正ができ、対診医等に対する診療情報の伝達が改善できる。院内医療 関係者は診療内容を確認でき、分担業務を遂行できる。健康管理手帳を介した診療開示により、患者自身は診療内容を確認でき、かかりつけ医の信頼が増す。ア ンケート結果からは、患者が自主的に自己管理する姿勢、自己決定の強化が推測されるものの、かかりつけ医の自主的サービスに依存する面も大きいと推測され る。(要旨全文資料

所属: 荒川医院副院長

参加費:300円


◆5月例会(第212回総合部会例会)

日時:5月13日(日)15:00~17:30
会場:上智大学2号館6階 ドイツ語学科会議室

演者:小山 千加代 氏(司会:小館 貴幸 氏)
演題:高齢者の看取り:
    終末期における医療・看護の実情と高齢者の自己決定に関する諸問題
要旨:
今年の関東支部会のテーマは「高齢者医療と自己決定」に決定されたと伺って おります。今回は、高齢者医療の中でも特に終末期医療と看護について取り上げ、 考えてみたいと思います。
5人に1人が65歳以上高齢者で、年間死亡者数が出生数を上回るようになった現 在、高齢者の看取りの問題は深刻さを増してきています。特に高齢者の場合には、 長い経過をたどって死に至るため、その間の看護や介護をどこでどのように受け るか、医療処置をどこまで受けるかという点では、高齢者の自己決定が大切であ りながら、高齢者の希望通りにはいかないことが少なくありません。
高齢者の終末期は、がん等の患者とは異なり、余命の予測が難しく、日本老年 医学会(2012)においても「近い将来死が不可避となった状態」と、その期間につ いてあいまいな表現をしています。しかし、基本的には、病状が悪化の一途をた どり、病気と老化で食事摂取も困難になり、ベッド上で身動きも出来ずに横たわっ ている患者の様子をみると、医師も看護師も「終末期」ということを意識するよ うになりましょう。
その際、高齢者本人が看取りの場所として選択できるのは、病院か、福祉施設 か、自宅かです。病院では早期退院を目指していますから、入院中の高齢者は経 管栄養や高カロリー輸液で延命が図られ、施設や自宅への退院を進められること が一般的でしょう。福祉施設は医療施設ではありませんから施設利用者が医療処 置を希望する場合には、病院へ入院することになります。しかし、病院に受け入 れを拒否されることもあります。最期まで自宅で過ごしたいと考えている人は少 なくないと思いますが、それを実現するためには地域医療やケアシステムの充実 が不可欠となります。
今回は、高齢者が最期を迎える場所として、病院、福祉施設、自宅という3つ を考えて、看取りの際に行われる医療と看護の実情について整理し、そこでの高 齢者の自己決定に関する諸問題を提起したいと思います。

所属:東京女子医科大学大学院看護学研究科 講師
専門:看護学、死生学

参加費:300円


◆4月例会(第211回総合部会例会)

日時:4月1日(日)16:10~17:30
会場:上智大学2号館6階 ドイツ語学科会議室

演者:朝倉輝一氏(総合部会長)(司会:小出泰士氏)
演題:2012年度年間テーマ:「高齢者医療と自己決定」(趣意書)報告
要旨:
高齢社会から次第に超高齢社会を迎えつつある現在、高齢者の医療においてこ れまで以上に様々な問題が浮上してきている。例えば、胃ろうの造設や継続の是 非、end of life careに見られるような末期ガンだけに限定されない終末期医療 と尊厳死や安楽死の是非、あるいはアンチ・エイジングやマインドリーディング のような技術を認知症患者などに応用する問題などである。
老年医学会を中心とした胃ろうに関するガイドライン(案)の作成、あるいは 認知症のターミナルケアのシンポジウムなどが昨年行われたことは、こうした問 題が喫緊の問題として広く社会的に顕在化しているという認識があるからではな いだろうか。
また、この3月、超党派の国会議員で作る尊厳死法制化を考える議員連盟が、 終末期患者が延命治療を望まない場合、人工呼吸器装置など延命阻止を医師がし なくても法的責任を免責される法案を国会に提出した(予定)。
他方、この尊厳死法制化の動きに対して、障害者団体などが、障害や重い病気 であっても必要な医療や介護を受けながら、その人らしい尊厳ある生を保証する ことこそが国の責任であるという立場から反対や懸念する声を上げている。  このいわゆる「尊厳死法案」提出の背景には、高齢者医療における本人の意思 確認の困難さと自己決定権の尊重という問題があることは間違いない。
これらの問題は、いわゆる医療分野においてだけでなく、介護の分野も含めた 哲学・倫理や政策決定に関わる重要な問題である。かつてインフォームド・コン セント導入に際して、患者の自己決定に関する議論が広く交わされた。しかし、 今、我々は、もう一度、高齢社会における医療・介護の現状を踏まえて、自己決 定の問題を通して老人観を含む人間観や死生観、あるいは障害観も含めて考える べき時がきたのではないだろうか。

所属:東洋大学
専門:哲学・倫理学

参加費:300円


 

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『医学哲学と倫理』第10号(2012年度)

目次

  • 兼松 誠 「ハンス・ヨナスの責任倫理の射程」 1-10頁 [PDF] (2013年3月30日)
    司会のまとめ(山本剛史)11-12頁  [PDF] (2013年3月30日)
  • 今井道夫 「ニーチェの病、ニーチェの哲学」 13-16貢 [PDF] (2013年4月15日)
  • 近藤 弘美「演題:リベラル優生学における問題―他者危害の原則の適用に関して―」 14-21頁[PDF] (2013年4月17日)
    司会のまとめ(石田 安実)22-23頁 [PDF] (2013年4月17日)
  • 小山千加代「高齢者の看取り-患者の生きようとする力へのささやかな助力」 24-27貢 [PDF](2013年5月22日)                                                   司会のまとめ(小館貴幸) 28-29貢 [PDF](2013年5月22日)

ISSN 2187-235X

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『医学哲学と倫理』第9号(2011年度)

目次

  • 浜田 正 「臨床研究倫理指針再考 -subjects(被験者)からparticipants(研究協力者)への困難な途」 1-5頁 [PDF]
  • 杉岡良彦 「代替・補完医療とスピリチュアリティを論じる視点」 6-10頁
    司会のまとめ(森 禎徳) 11頁  [PDF]
  • 仙波由加里 「不妊治療と補完代替医療の関係性―米国の現状を概観して」 12-17頁
    司会のまとめ(森 禎徳) 18頁  [PDF]
  • 半田栄一 「現代の医療と禅-白隠に関して-」 19-23頁
    司会のまとめ(江黒忠彦) 24-25頁  [PDF]
  • 上原雅文 「日本人の霊魂観」 26-31頁
    司会のまとめ(関根 透) 32頁  [PDF]
  • 伊野 連 「iPS 細胞と現代再生医療の倫理性について」 33-37頁
    司会のまとめ(奥田純一郎) 38頁 [PDF]
  • 黒須 三恵 「人体組織の医学・医療上の利用について」39-44頁
    司会のまとめ(宮下 浩明) 45頁 [PDF]

ISSN 2187-235X

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『医学哲学と倫理』

『医学哲学と倫理』は、第9号からオンラインジャーナルになりました。


ISSN 2187-235X

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2010年度年間テーマ 趣意書

年間テーマ:「人体組織の医学・医療上の利用をめぐる倫理問題」

昨年(2009年)7月に、臓器移植法が十分な審議もなされず、「改正」された。これにより、死後の臓器提供において親族への優先提供が可能となったが、 この親族優先は移植医療の公平性と矛盾するものである。条文上は脳死は人の死となり、臓器提供拒否の本人の生前意思表示がなければ、遺族の同意で臓器が提 供されることになる。改正される前の臓器移植法では、自律尊重原則のもと、本人の生前の提供意思が前提となっていた。しかし、これでは意思表明不能な乳幼 児からの臓器提供は不可能である。そのため、昨年の法改正で遺族からの同意で乳幼児からの臓器提供を可能とした。成人でも本人の生前の臓器提供拒否の意思 がない限り、遺族の同意による提供を認めたことにより、遺族の役割が重要となった。

思い心臓病等で苦しむ乳幼児の「生命・人間の尊厳」を考えると臓器移植は倫理的行為かもしれない。では、遺族による臓器提供を認める倫理的根拠は何か。遺 体はだれのものか。どのような存在として遺体を受け止めればよいのか。こうした問題は、生体肝移植のように、生きた人からの臓器等の提供にも当てはまる。

生命倫理に関連した宣言に、バルセロナ宣言とユネスコの生命倫理と人権に関する宣言がある。そこでは、自律尊重原則、人間の尊厳の他に、脆弱性、連帯が掲 げられている。「連帯」に着目すれば、子どもの臓器等を提供することは、社会への「連帯」として捉え、そのことが人間の尊厳を保つことにもなるとも考えら れる。しかし、一方、社会への「連帯」が強調されれば、社会的「責任」へと転化され自由意思を持つ個々人への意思の強制へと導くことになりかねない。

他人の死を前提とした臓器移植は、臓器不足や移植臓器の拒絶反応という根本的課題がある。これらを解決する有力な方法が再生医療である。必要とする細胞や 組織を、自己の幹細胞やiPS( 人工多能性幹細胞)やES(胚性幹 細胞)から作成する試みが国家政策として進められている。がん化することなく安全に効率よく目的とする細胞を作成することは今のところ成功していない。し かし、いずれ技術的課題は克服されるだろう。では再生医療には技術的課題以外に問題はないのだろうか。生殖細胞を利用することや、体細胞から生殖細胞を作 成するなどの倫理問題がある。

重病で苦しむ人の「人間の尊厳」「生命の尊厳」のために、臓器等を提供することは、「崇高な」「倫理的」行為ともいえるかもしれない。一方、心理的存在で もある私たちは、助かりたいと思えば他人の死を期待しかねない。臓器提供する側および提供を受ける側における、倫理及び心理問題を含め、臓器等の提供につ いて多面的に理解することが必要である。

私たちはどのような医療を目指せばよいのか。臓器移植と再生医療から見えてくる人間観ははたしてどのようなものなのであろうか。このようなことにもつながる議論を期待したい。 (文責:部会長 黒須三惠)

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これまでの総合部会

 

 

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2005年度


◆3月例会(第144回総合部会例会)

例会
日時:2006年3月4日(土) 14:30~17:30
会場:上智大学 新2号館6階 ドイツ語学科会議室
最寄駅:JR中央線・総武線/地下鉄丸ノ内線・南北線/四ッ谷駅下車徒歩3分
→(アクセス)
→(キャンパスマップ)
演者:中澤武 (なかざわ たけし)氏
(司会:船木祝 氏)
演題:出生前診断のインフォームド・コンセント――安全と納得とのあいだ――
要旨:
昨年秋以来、長野県東部地域では上田市産院の存廃問題をきっかけとして地域医
療のあり方をめぐる活発な議論が交わされている。「いいお産」を望む母親たちの運
動は地方行政と大学医学部とを巻きこんで、予想外の質的深まりを見せつつある。
この市民運動の場で確認されたことのひとつに、医療を提供する側と受ける側との
「いいお産」に関する認識の相違がある。産科医不足の深刻な現状に対処する緊急
避難的措置として医療の集約化を推進する提供者側が、安全性の向上こそ「いいお
産」への道であることを強調するのに対し、母親たちが求めているのは安全だけでは
ない。産科医療を自ら納得しつつ選択できること、それが母親たちの考える「いいお
産」の不可缺な条件である。上田地域の産科医療をめぐる市民運動が浮彫にしたの
は、要するに、安全と納得とのあいだの問題領域なのである。
いわゆるインフォームド・コンセント (= IC) という概念が、このような領域において
重要な役割を果たすことは論をまたない。ICが日本に知られて以来約二十年、本概
念はさまざまに変質しつつも徐々に日本社会に定着してきた。ICの概念をいかに理解
し、その形骸化を避けつつ、いかにこれを医療現場で活かすかが焦眉の問題である
現況において、産科医療の将来にとってICにはどれほどのポテンシャルがあるのであ
ろうか。
論者自身のドイツでの見聞、とくにかの地で長男が生まれる際に不安のなかで悩み
夫婦で決断した体験をもとに、出生前診断におけるICの問題を中心として、「よく知り
納得したうえでの診療選択」としてのIC実現に寄與するべく、医療の受け手の側から
その方策を考える。

専門:哲学(倫理・ドイツ18世紀啓蒙思想)、科学史・科学哲学、法律学(憲法
・刑法)
所属:早稲田大学

◆2月例会(第143回総合部会例会)

例会
日時:2006年2月5日(日) 15:00~17:00
会場:東洋大学白山キャンパス6号館4階文学部会議室
→(アクセス)
演者:小松奈美子 (こまつ なみこ)氏
(司会:宮下浩明 氏)
演題:現代医学におけるインフォームド・コンセントの位置づけ――伝統医療を視野に入れて
要旨:
医学哲学・医学倫理の分野でインフォームド・コンセント(以下IC)は非常に頻
繁に使用されている言葉であり、医療現場においてもムンテラに代わってICが
日常語となっていることは周知の通りである。「Informed ConsentからInformed
DecisionあるいはInformed Choiceへ」などという患者本位の言葉も聞かれるよ
うになった。たしかに、以前に比べて、患者への説明は丁寧になっている。病院
内におかれている「患者様へ」などというパンフレットには「患者様は神様です」
とも受けとれるような言葉が並んでいる。医療裁判の患者勝訴率もあがってきて
いる(日本でもICが医療裁判対策のひとつとなりつつある)。しかし、その半面、現
場では、術前に、「あの患者からICをとったからね」などという言葉が聞かれるこ
ともある。これではムンテラと変わりない。だいたい、ICは医療者が「とる」もので
はない。患者から「もらう」ものである。また、なかには、「たっぷり時間をかけて
説明してあげたのに,あの患者はものわかりが悪い」などとぼやく医師もいる。
しかし、ここで、医療者だけを責めるのは片手落ちであろう。現代医学は、その
成立過程からして、侵襲的であり、副作用を伴うものであり、ストレスフルな治
療を伴う傾向をもっている。それが現代医学の宿命でもある。そこで、患者の同
意や選択や決断が必要になってくるわけであるが、その場合、医療者と患者の知
識の格差は歴然としている。したがって、医療者のICも説明的にならざるをえ
ない。その説明を患者は何とか理解しようとするが、すべてを理解することは不
可能である。その点では現代医学における医療者―患者関係は「お任せ医療」と
ならざるをえない傾向が強い。
もちろん、現代医学の輝かしい業績は誰もが認めるところであるが、しかし、現
代医学は万能ではない。唯一の医学でもない。ここで、もう少し視野を広げて、
「チョイス」の一つとして、何千年も続いてきた伝統医療に目を向けるのも一策
ではないだろうか。なぜなら、そこには、より非侵襲的であり、副作用も少なく、
ストレスの少ない世界が広がっているからである。今回は私自身の体験を織り交
ぜながら「現代医学のなかでのインフォームド・コンセントの位置づけ」につい
て伝統医療を視野に入れて考察したい。

専門:生命倫理、医療倫理
所属:東日本国際大学大学

◆1月例会(第142回総合部会例会)

例会
日時:2006年1月7日(土) 14:30~17:00
会場:上智大学 新2号館6階 ドイツ語学科会議室
会場へのアクセスの際の注意事項
最寄駅:JR中央線・総武線/地下鉄丸ノ内線・南北線/四ッ谷駅下車徒歩3分
→(アクセス)
→(キャンパスマップ)
演者:圓増文 (えんぞう あや)氏
(司会:田村京子 氏)
演題:信頼関係とインフォームド・コンセント
要旨:
人間は、他の人に決められて行動するのはなく自分で決めて行為するという点で
自由であり、また、誰もがこうした自由の享受を認められなくてはならないという点で
平等である。自由で平等な行為者という、こうした人間像は、今日の私たちの社会で
は広く受け入れられている。例えば医療の領域においては、「医療従事者は患者の
決定を重視しなくてはならない」とする自己決定尊重の考え方が治療やケアのあり方
を決める上での重要な原理とされているが、この考え方はこうした人間像に基づいて
いると見ることができる。
他方で近年、こうした人間像に基づいて打ち立てられた倫理原則や、この人間像を
前提とする考え方を批判する論者もいる。批判の理由のひとつとして挙げられるのが、
自由で平等な行為者という人間像を前提とする考え方や理論は概して、人間相互の間
に形成される信頼関係の重要性を軽視する傾向をもち、ひいては、親密な人間関係の
形成を妨げるというものである。例えば、自己決定の原理に向けられたある批判による
と、自己決定を重視する動きは一般に、自己決定を行う主体の側には「他人に迷惑をか
けなければ何をしてもいい」という論法を導く一方、その周囲の側には「ある人に自己決
定を認めるなら、そのことによって生じた結果はその人の責任であり、わたしたちには関
係ない」という論法を導くことになる。しかし、批判によると、こうした論法を多くの事柄に
当てはめることは、家族や学校、地域社会などの共同体によって本来、対処されるべき
問題を個人の問題へとすりかえてしまい、それによって、人々のコミュニケーションを遮断
したり排除したり、ひいては信頼関係の崩壊につながってしまうという。こうした批判は、医
療の場に向けられることもある。たとえば、従来医療において見られたような医療従事者
と患者、その家族との間に成立していた信頼関係が、自己決定の原理が導入されたこと
により、失われつつあるとして、自己決定重視の傾向を批判する論者もいる。
しかし、こうした批判はどこまで妥当なものなのだろうか。例えば、近年の医療において
重要な役割を果たすようになったインフォームド・コンセントのプロセスは、こうした人間像
に基づいて出されたものであるが、このプロセスは人間関係の崩壊をもたらすというよりは、
むしろ信頼関係を築く上で不可欠であるように思われる。本研究は、こうした問題意識から
出発し、医療における信頼関係の形成はいかにして可能なのかという問題を、カントの思想
に基づいて検討していくことを目的とする。カントの思想は、感情や欲求に依存せず、自ら普
遍的な法則を定め、それに従って行為するという人間がもちうる能力を前提とするものであり、
こうした前提をもつ彼の思想は、そのため、自由で平等な行為者という人間像に大きな影響
を与えた思想の一つと位置づけることができる。

専門:倫理学
所属:慶應義塾大学

◆12月例会(第141回総合部会例会)

例会
日時:2005年12月3日(土) 15:00~17:30
会場:上智大学 新2号館6階 ドイツ語学科会議室
演者:霜田求 (しもだ もとむ)氏
(司会:関根透 氏)
演題:着床前診断と胚選別をめぐる倫理問題
要旨:
着床前診断と胚選別をめぐる倫理的・社会的諸問題について、基本的な現状の
確認と概念整理・分類を踏まえた上で、いくつかの典型事例を手がかりにしながら、
考えてみたい。基本的な論点として、「生命の選別」と「優生思想」、「障害者への
差別」の助長・強化という反対論、障害者の出生予防と現存障害者の福 祉向上と
の「両立可能論」、当事者の選択の自由・幸福追求権という正当化論、 選択的中絶
と消極(回避)的胚選別の関係等を設定し、それぞれの論点に即して 検討を加える。

専門:哲学、倫理学
所属:大阪大学

◆11月例会(第140回総合部会例会)

例会
日時:2005年11月5日(土) 15:00~17:30
会場:東洋大学白山6号館4階 文学部会議室
※周辺地図・構内図等は、東洋大学のホームページをごらん下さい。
→(案内図)
【発表内容】
演者:松田純(まつだ じゅん)氏
(司会:棚橋實 氏)
演題:先端医療とケアの文化――エンハンスメント問題の射程
要旨:
いま医療の姿が大きく変わりつつある。再生医療は,病気で失われた器官や機能
を,生体が本来そなえている再生能力を活かして治療する。これは病気の治療に
用いられるだけではなく,増進的介入(エンハンスメント)(若返りや人体改造,
遺伝子ドーピング)にも用いられる。エンハンスメントの普及により,病気でな
かったものまで「病気」にされ,医学的介入の対象となる。「理想の健康状態」
があくことなく追求され,医師は人体改造の「請け負い人」に成り下り,医療が
健康サービス業に変質する可能性が出てきた。「病気」,「健康」,「医療」の
いずれの概念も拡大していく。医療の本来の目的・使命とは何かが問い直される
であろう。
「より健康で,より強く,より優秀で,より美しく」。こうした欲望が人間をエ
ンハンスメントへと駆り立てている。しかし,人間はむしろ傷つきやすい”か弱
きもの”,「自由にして依存的な存在」である。「弱さ」こそが「助け合い支え
合う」というケア文化を育んできた。エンハンスメントへの熱中はケアの文化と
制度を危うくするリスクを孕んでいる。強さに憧れ,自然の限界を次々に突破し
ていく「力強い人間」像の上に社会を設計していくのか。それとも,人間の<弱
さ>を前提にして人間社会の持続可能性を担保するのか。エンハンスメントをめ
ぐる問いは,「私たちはいったいどういう社会に生きることを望んでいるのか」
という社会選択をも含んで,その射程は深い。
現代先端医療は「細胞・分子中心の医療」に行き着いた。生命科学が究極のア
トミズムにたどり着いたことで,逆に,生命進化の壮大なドラマ,生命(いのち)
の大いなる連関も見えてきた。「遺伝子を見て患者を見ない」という究極のアト
ミズムに陥るのか。それとも,「支え合う生命(いのち)」というエコロジカルな
道を探究するのか。私達はいま生命観の上でも二方向からの挑発を受けている。

(当日は拙著『遺伝子技術の進展と人間の未来――ドイツ生命環境倫理学に学ぶ』
知泉書館,2005年についてご意見を伺えれば幸いです。)

関連文献
ドイツ連邦議会答申『人間の尊厳と遺伝情報――現代医療の法と倫理(上)』
松田純監訳・中野真紀・小椋宗一郎訳,知泉書館,2004年
同『受精卵診断と生命政策の合意形成――現代医療の法と倫理(下)』近刊
浜渦辰二編『〈ケアの人間学〉入門』知泉書館,2005年

専門:哲学、倫理学
所属:静岡大学

◆10月例会(第139回総合部会例会)

例会
日時:2005年10月1日(土) 14:40~17:00
会場:上智大学 新2号館6階 ドイツ語学科会議室
会場へのアクセスの際の注意事項:
当日は道案内の掲示などは出せません。アクセスの際、以下のことにご注意下さ
い。
土曜日は駅に一番近い門は閉ざされています。土手沿いの道を進み、正門からお
入り下さい。正門を入ってすぐ左にある大きな建物が、新2号館です。エレベー
ターは六つありますが、半分(片側サイド)は五階までしか行きません。ご注意
ください。エレベータを降りましたら、そのまま右にまっすぐお進み下さい。突
き当たりの右側がドイツ語学科会議室になります。

最寄駅:JR中央線・総武線/地下鉄丸ノ内線・南北線/四ッ谷駅下車徒歩3分
→(アクセス)
→(キャンパスマップ)
【発表内容】
演者:浅見昇吾(あさみ しょうご)氏
(司会:岡本天晴 氏)
演題:ヒト胚は道徳的地位を持つか?
――ヒト胚を巡るドイツ的議論の射程――
要旨:
ヒト胚をどのように扱うべきかについては、これまで種々様々な議論が展開さ
れてきた。しかし、医療技術が発展していくにつれ、ヒト胚に対する考え方も再
考を迫られることになる。また、欧米各国のヒト胚研究に対する見解が相違して
いる上に、ヒト胚研究に対する規制を変更する国もあらわれ、少なからぬ国でヒ
ト胚の道徳的地位についての議論が再燃している。こうした状況の中で、ドイツ
の状況は特に注目に値すると思われる。基本法(憲法)で人間の尊厳が強く謳わ
れ、「胚保護法」という強い規制も存在し、ヒト胚研究に対する否定的な考えが
かなり強い。
こうした特殊性を持つドイツで、ヒト胚の道徳的地位について近年どのような
議論が戦わされてきたかを吟味したい。ヒト胚の尊厳を認めるための新たな議論
がドイツで展開されているのか。展開されているとすれば、その議論はどのよう
な特徴を持つのか。議論の前提や議論の仕方にドイツ的な特徴や特殊性があるの
か。ドイツ的な特殊性があるとすれば、それを他の国の状況にも適用できるのか。
このような問いを探っていく予定である。
論争に参加した様々な思想家の中で取り上げたいと考えているのは、E・ショッ
ケンホフ、R・メルケル、L・ホーネフェルダー、B・シセーネ=ザイフェルト等
である。この際、種々の議論を幾つかの議論のタイプに整理しながら、問題を追
いかけていきたいと考えている。例えば、ヒト胚の擁護論を種の帰属性に基づく
議論、連続性に基づく議論、アイデンティティに基づく議論、ポテンシャリティ
に基づく議論等に分け、ヒト胚の議論の根底にあるものを探っていきたい。

専門:哲学、倫理学
所属:上智大学

◆9月例会(第138回総合部会例会)

例会
日時:2005年9月3日(土) 14:40~17:00
会場:上智大学 新2号館6階 ドイツ語学科会議室
最寄駅:JR中央線・総武線/地下鉄丸ノ内線・南北線/四ッ谷駅下車徒歩3分

【発表内容】
演者:黒崎剛(くろさきつよし)氏
(司会:青木茂 氏)
演題:インフォームド・コンセントの概念論
要旨:
インフォームド・コンセントはきわめて実践的な概念であるが、発表者は実際の
医療には関わらない哲学研究者なので、インフォームド・コンセントのカテゴリ
ー批判から始め、それに基づいて、もっぱら患者としての立場から、将来の診察
のあり方を推理してみる。
1.インフォームド・コンセントの社会的基礎:インフォームド・コンセントは
近代的自由論であり、その自由概念は、資本主義社会における商品交換の法則か
ら発生してきたものであり、自然の法則性と社会の規範性とから分離した個人主
義的自由である。この点でインフォームド・コンセントの概念は、近代的自由が
抱える対立性を引き継いでいることをまず確認する。
2.過渡的解決法としてのインフォームド・コンセント:インフォームド・コン
セント型の医療が巻き込まれる対立は、(1)患者は自己決定しようにも、人間の
からだの仕組みや医療そのものの知識が欠けているから、自己決定できない、(2)
他の規範をもっている他人(医療者)との関係の中でしか自己決定できない、と
いう点にある。この意味で、インフォームド・コンセントは思想的には、一方で
はきわめて個人主義的・実存主義的な概念であるが、他方では関係主義的な概念
だという矛盾を抱えている。したがってそれは自足的な決定法ではなく、ある過
渡的な方法論であることが分かる。
3.これを踏まえると、将来の診断・医療のあり方はこの対立を超えたところに
あると思われる。その場合、対立するものを媒介するものが人である場合と物で
ある場合とに分けて、解決形態がいくつか考えてみる。

専門:哲学、倫理学
所属:日本医科大学

◆7月例会(第137回総合部会例会)

例会
日時:2005年7月2日(土) 14:40~
会場:東京医科大学 (病院の方ではありません)
〒160-8402 東京都新宿区新宿6-1-1
総合情報部棟1階 講義演習室(第一校舎の裏側)
最寄駅:丸の内線「新宿御苑前」(病院の方ではありません)
→(アクセス)
→(mapfan 案内図)
【発表内容】
演者:渡邊智寛 (わたなべともひろ)氏
(司会:奈良雅俊 氏)
演題:ブックレヴュー:
John, I. Gallin編『NIH 臨床研究の基本と実際』井村裕夫監修、丸善、2004年。
要旨:
平成15年4月30日、文科省・厚労省から「全国治験活性化3カ年計画」が打ち
出された。日本国内における治験を取り巻く「長い時間がかかる」、「質が良く
ない」、「費用が高い」という状況が、いわば「治験の空洞化」を生んでいると
いう危惧から、治験の実施体制を整備し、治験に対する国民理解の浸透を図った
ものである。実際、平成9年の新しいGCP基準(Good Clinical Practice, 医薬
品の臨床試験の実施に関する基準)施行以降、承認申請データとしての外国にお
ける試験結果の受入を行ったことや薬価引下げ等の影響で、10年前と比較して治
験届出数が3分の1前後にまで減少しているという。
さらにこの計画では、「大規模治験ネットワーク事業」も打ち出されている。
これは、国立高度専門医療センター(国立がんセンター、国立循環器病センター
など)、特定機能病院、臨床研究指定病院などが中心となって疾患ごとにネット
ワークを構築したうえで、患者が必要としている医薬品等について、医療機関や
医師主導の治験、企業主導の治験を実施し、患者に対して、質の高い医薬品等を
迅速に提供することを目指すものである。
なお、この流れのなかで平成15年7月30日に施行された「臨床研究に関する倫
理指針」は、「医学系研究の推進を図る上での臨床研究の重要性を踏まえつつ、
個人の尊厳、人権の尊重その他の倫理的観点及び科学的観点から臨床研究に携わ
るすべての関係者が遵守すべき事項を定めることにより、社会の理解と協力を得
て、臨床研究の適正な推進が図られること」をその目的としている。
これらの動きからは、日本国内において、少なくはない臨床研究者達が、治験
をより「やりやすく」実施したいと切望している現状が透けてみえる。本書の訳
者の多くが、「大規模治験ネットワーク事業」の中心的施設とされている国立が
んセンターや国立循環器病センターに勤務している(出版時)という事実もある。
本書は、米国NIH(National Institute of Health, 国立衛生研究所)臨床セ
ンターの入門コースで用いられている教科書である。臨床研究の基本理解を目指
し、臨床研究の歴史、倫理、データ管理、リスク回避、法律、マイノリティ問題、
統計学、QOL尺度、技術開発、技術移転、遠隔医療、相補代替医療(CAM)、臨床研
究プロトコル作成、研究費調達、知的財産権など、多岐にわたる事柄が網羅的に
解説され、訳書においても約500ページに及ぶ大部となっている。なお、日本国
内の治験や知的財産権等の現状に関する解説も、補遺として加えられている。構
成は、第1章「倫理、規制、および法律問題」、第2章「生物統計学と疫学」、
第3章「技術移転、プロトコール作成と研究費調達」の3部立てとなっているが、
なかでも第1章を中心に見ていきたい。
1974年の「Nationl Research Act, 国家研究事例」に基づいて設立された「生物
医学と行動医学の研究における被験者保護のための国家委員会」の活動が、ひと
つの成果として結実したのが「ベルモント・レポート」(1979)である。「ベルモ
ント・レポート」は、人間を対象とした研究の施行における倫理原則と、それら
の適用について明示しているが、この倫理原則が「respect for persons, 人格
の尊重」、「beneficence, 善行」、「justice, 公正」である。後に連邦のコモ
ン・ルールとなる45CFR46は、このレポートをその基礎としている。本書第1章
を概括することは、そのまま、米国における治験がいかなる倫理原則に基づいて
実施されているのかを知ることとなろう。

専門:哲学
所属:立正大学

◆6月例会(第136回総合部会例会)

例会
日時:2005年6月4日(土) 14:00~17:00
会場:新宿鍼灸柔整専門学校 地下1階会議室
(〒160-0017 東京都新宿区左門町5番地)
→(案内図)
→(mapfan 案内図)
【発表内容】
演者:吉田 李佳(よしだ りか)氏
(司会:浅見 昇吾 氏)
演題:利他性の洗練――創発的秩序の形成に関する考察――
要旨:
1.利己性の超克
人間は、生物的本能に規定された利己性と、それを乗り越えようとする利他的な
衝迫を併せ持っている。他者の困窮に対してある切実さをもって関わろうとする
この衝迫(「ケア衝動」)は、生物学的な因果律から人間を解放する契機である。
人間社会は、利他的衝迫という上位の衝動に生物的本能という下位の衝動が包摂
されることによってそれとして機能している。人間には、後者を敢えて放棄する
ことさえ可能である。ケア衝動を意志と行為において洗練し、それに依拠しつつ
他者関係を構築し、社会生活を営む能力こそが人間を他の動物と分かつとも言え
る。
2.ケアの社会性
ケアにおける主体と客体はそれぞれに他の様々な関係の布置の中にあり、それ
ゆえ、どのようなケア関係も必然的に、閉じた二者関係を超えた社会的位置づけ
を得る。眼前の他者と関係を結ぶことは、二つの布置を統合することであり、そ
の全体像を見渡す第三者的あるいは超越的な視点を持つことは、ケアが倫理的に
洗練される契機であり、またケアが徳として目的化される根拠ともなる。人間社
会はこのような第三の視点に依拠して創発的に構築されていると言える。
3.セルフケアの身分
ケアは社会的な文脈の中で、しかしそれ自体は二人称的に実践される。我々は
自己の成立に先立って他者との関係の中に置かれているが、同時に、我々は他者
へと関係することに先立って自己自身に関係している。ここから、セルフケアは
他者へのケアに先位すると言える。即ち、自己が他者との関係のうちにあるがゆ
えに、セルフケアが他者への関係を拓くのである。この観点からは、没我的な献
身や自己犠牲的なケアが回避され得る。キリスト教的な自己犠牲も、他者へのケ
アが直ちに自己へのケアであるという意味においてはセルフケアの一種である。
4.他者へのケア
ケアは、自他が異なる存在として共に在ることにおいて可能になる。他者の境
遇や境涯はあくまで他者自身のものであるゆえ、ケアは「相手の存在の境位の向
上(幸福)を願う」という心的構えとして始まる。具体的には、他者の直面する
現実に介入して直ちに問題を無化し、あるいは状況を変更することよりもむしろ、
まず共感的、共苦的に随伴すること、即ち他者の存在を無条件に承認することと
して始まる。他者はそれによって尊厳を護られる。

基本文献
稲垣久和著『宗教と公共哲学 生活世界のスピリチュアリティ』(東京大学出版
会、2004年)
西田正規他編『人間性の起源と進化』(昭和堂、2003年)
N.ルーマン著、佐藤勉監訳『社会システム理論』(恒星社厚生閣、1993年)

専門:生命倫理
所属:熊本大学社会文化科学研究科博士課程

◆5月例会(第135回総合部会例会)

例会
日時:2005年5月7日(土) 14:30~17:00
会場:新宿鍼灸柔整専門学校 地下1階会議室
(〒160-0017 東京都新宿区左門町5番地)
→(案内図)
→(mapfan 案内図)

【発表内容】
演者:船木 祝(ふなき しゅく)氏
(司会:杉田 勇 氏)
演題:「ベンダ報告」から「胚保護法」制定に至るまでの議論
――ヒト余剰胚研究は許されるか――
要旨:
前連邦憲法裁判所所長ベンダ(Ernst Benda)議長の名に従って名づけられた、
「ベンダ委員会」と通称される「連邦研究技術大臣、連邦法務大臣との共同研究
グループ」は1984年5月、当時の同省の連邦大臣エンゲルハルト(Hans A.
Engelhard)とリーゼンフーバー(Heinz Riesenhuber)によって設置された。全
部で9回、その都度2日間に亙る会議が開かれ、当委員会から1985年11月最終報告
書が提出され、これが1986年4月の連邦法務省「胚保護法討議草案」に取り上げ
られた。「ベンダ報告」は「胚保護法」成立に至る過程での、最初の本格的な議
論を示すものと言えよう。ベンダ委員会は全般的視野から生殖医療問題に取り組
むものであって、その論述には自然科学全般、医学全般、宗教、哲学、心理学、
法律の様々な分野、特に、道徳神学、生物学、獣医学、社会倫理学、産婦人科学、
人間学、遺伝学、ヒト遺伝学等の分野における専門家の意見が取り組まれている。
こうした全部で19名の様々な専門分野の委員から構成される委員会の有する性格
から、合意に基づいて明確に表明される、法律上の規制に関する「勧告」が慎重
なものにならざるを得なかったことが分かる。また、参加者19名の内、法学者と
しては、ベンダ(憲法学者)、ドイチュ(Erwin Deutsch、民法学者)、エーザー
(Albin Eser、刑法学者)の三名が挙げられるが、その中で唯一刑法学者であっ
たエーザーの発言力が見逃せないであろう。当発表では、テュービンゲン大学
(1986年11月21日-23日)、およびオーバーヨッホ/ アルゴイ(1987年1月16日
-18日)にて開催された「刑法と人類遺伝学」と題されるシンポジウムにおける
議論を取り上げたい。このシンポジウムの議論の中心に位置するのが、上の1986
年4月の連邦法務省「胚保護法討議草案」である。同討議草案は認可条件を守っ
た限りでのヒト余剰胚実験を許容している。シンポジウムで、ヒト余剰胚研究を
結論的に認容する立場をとったのが、エーザーとフェヒナー(Erich Fechner)
である。これに対し否定的立場をとったのが、フィットウム(Wolfgang Graf
Vitzthum)である。また、当面はヒト余剰胚研究の全面禁止が望ましいと論じた
のが、ギュンター(Hans-Ludwig Gunther)である。同シンポジウムに登場して
くる論者の議論は、「ベンダ報告」から「胚保護法」に至るまでの重要な論点を
明らかにしてくれると思われる。

専門:ドイツ思想史、生命倫理
所属:文化女子大学・武蔵大学非常勤講師

◆4月例会(第134回総合部会例会)

例会
日時:2005年4月2日(土) 16:10~17:00
会場:東洋大学白山校舎5号館2階5203号室
※周辺地図・構内図等は、東洋大学のホームページをごらん下さい。
→(案内図)

【発表内容】
演者:岩倉 孝明(いわくら たかあき)氏
(司会:重野豊隆氏)
演題:インフォームド・コンセントの現状と課題
要旨:
インフォームド・コンセントは、現代の医療や医学研究等において重要なキー
ワードの一つである。日本では1980年代後半から議論されるようになり、現在で
は全国の医療機関に普及してきている。
医療系の研究論文索引である『医学中央雑誌』により、「インフォームド・コ
ンセント」と「倫理」をキーワードに検索すると、287件ヒットした。その代表
的テーマ大雑把に眺めてみると、臨床研究・治験、癌告知、代諾、救急医療、個
人情報の扱い、医学研究倫理審査、医療者(学生)の倫理教育、カルテの問題、
医療過誤・医療訴訟・医療安全、医療者の道徳・倫理観、輸血拒否の問題、小児
・高齢者等の意思決定の問題、医療者―患者関係、セカンドオピニオンの問題、
などがある。
このようなインフォームド・コンセントの普及や盛んな研究状況にもかかわら
ず、最近の世論調査はつぎのように、医療者と患者との間のインフォームド・コ
ンセントをめぐる認識のギャップを伝えている。

治療方針、患者8割「選択肢ない」 医師と意識に差
治療方針の決定に当たって、医師の9割は、患者に選択肢を示して同意や相談
の上で決めていると思っている。だが、患者の側は8割近くが、完全に医師に任
せるか、選択の余地なく同意せざるをえないと感じていることが、医薬産業政策
研究所(東京)の藤原尚也、野林晴彦・両主任研究員の調査でわかった。
調査は、04年11、12月に実施され、病院勤務の医師1101人と、一般の医療消費
者1134人から回答を得た。
その結果、医師の81%は治療法決定の理想として「複数の治療法を説明し、最
良と思う方法に同意を得るインフォームド・コンセント」や「複数の治療法から
患者と相談して決めるインフォームド・チョイス」を考えていた。88%が、実際
にもそうした意思形成をしていると思っていた。
ところが、大多数がインフォームド・コンセントやインフォームド・チョイス
を理想とする点は同じでも、一般の人では75%が、現実は「医師任せ」または
「医師が最良と思う治療法に同意」とした。医師の認識とは正反対だった。
薬の決定では、理想についても認識が食い違っている。医師の6割が、「最良
と思う薬に患者が同意」としたのに対し、患者側は8割が、治療同様「複数の選
択肢から同意と相談で決めたい」と考えていた。
藤原さんらは「医療消費者は意思決定の過程を重視している。認識のギャップ
を埋めることが医療への満足度につながっていくだろう」と話す。(asahi.com
02/26 13:19)

このような状況は、従来の同種の調査でも報告されている内容であるが、それ
がなかなか改善されないのは、残念な事態である。
このようなギャップを埋めるために、今後インフォームド・コンセントはどの
ようなあり方を目指すべきかということを、考えてゆく必要があるといえよう。
以下では、インフォームド・コンセントの基本に関わる論点を確認しながら、
インフォームド・コンセントの方向性をさぐるための一つの見取り図を考えてみ
る。

1.自己決定の二つのはたらき

人(患者・被験者)の、治験や治療等に関する自己決定権を実現する手続きを
制度化したものがインフォームド・コンセントである。従ってインフォームド・
コンセントの基本は、自己決定権の問題であり、それに対応する自律尊重の原理
であると考えられる。
これらの法的・倫理的原則が医療の場に持ち出されたのは、ヒポクラテス以来
の従来の医療における医療者のパターナリズムへの批判からであるとされる。そ
の場合、患者の自己決定を尊重することが、とりも直さず患者の人間性を尊重す
ることでもあると、考えられてきたといえよう。
これに対して、自己決定原理ないしそれを基礎とするインフォームド・コンセ
ントは必ずしも患者の利益の尊重にはつながらないという指摘もなされてきた。
患者が医療について専門的知識をもたないこと、医療現場の時間的制約、また小
児や精神的障害者のように十分な理解・意思決定能力をもたない者が存在するこ
となどから、患者の利益のためには、自律決定原理は批判されてきた。
こうした医療の見方をめぐる葛藤は、医療における二つの倫理的要求の対立に
よるものであることが指摘されてきた。(新田孝彦『インフォームド・コンセン
トの哲学的基礎―功利主義かカント主義か―』)
すなわち、
1)患者を含む関係者により多くの幸福をもたらすこと
2)その患者ないし関係者の自己決定を実現すること
という二つの倫理的要求対立である。
論者は、これらの根底にある原理は、それぞれカント主義と功利主義であると分
析している。すなわち、前者は、患者の人格と自由意志を尊重する立場であり、
後者は、患者ないし関係者に最大の幸福をもたらすことを医療行為の目的と見な
す立場である。
※1997年改正の医療法の条文をみると、
第1条の4 医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他医療の担い手は、第1条の2に
規定する理念に基づき、医療を受ける者に対し、良質かつ適切な医療を行うよう
努めなければならない。
2.医師、歯科医師、薬剤師、看護師その他の医療の担い手は、医療を提供するに
当たり、適切な説明を行い、医療を受ける者の理解を得るように努めなければな
らない。
とあるが、ここで第1項と第2項とは、上記の二つの見方に対応する内容といえる。
このように問題の整理を、基本的には認めてよいと思われる。そしてこれらの
根底には、二つの人間観の対立があると考えられる。つまり、人間の本質を、人
間がもつ何らかの性質等にもとめるか、または人間だけが行使できるとされる
「自由」に求めるか、という対立である。これをクローズアップしたのは、たと
えば実存主義の哲学者であろう。サルトルによれば、人間はまずもっては何もの
でもなく、まず実存し自己のあり方を自由に選び、自ら価値を造り出してゆくよ
うな存在者である。特殊な含意をおいて、これを文字通りの意味で医療の場に持
ち込むとすれば、患者を人間として尊重するとは、彼の自己決定を尊重すること
以外ではないことになろう。
しかしわれわれは、医療機関にかかるとき、傷病の治癒を求めているのであり、
自己決定そのものを目的にしているわけではない。危険を伴う手術など重大な場
面では自己決定が重要となるが、傷病の治癒が最終目的でなくなるわけではない。
とすれば、治癒における自己決定は、患者としての私にとって、重要ではあるが
唯一の要求とまではいえないだろう。
医療における患者の自己決定は二重の働きをもつものではないか。一つは、目
的それ自体としての自己決定である。つまり患者(関係者)が自らの心身の処置
について決定を下すこと自体の価値である。この点からみると、客観的にみて愚
かな決定であっても、それが自己の決定であるかぎり、よしとしなければならな
い可能性がでてくる。
しかし自己決定にはもう一つの働きがあって、それは患者(関係者)の幸福を
促進するための手段としての、つまり幸福原理を補助する働きである。この後者
の働きからみると、自己決定の要求は、幸福促進に相対的にのみ意義を認められ
るものであり、それが幸福促進の方法として不適切だと考えられる場合は、斥け
られたり緩和されたりしてよいものである。
インフォームド・コンセントは、自己決定権を具体化するための手続きである
が、それはこのようなインフォームド・コンセントの二重の機能を果たしうるよ
うに行われることが必要であろう。すなわちインフォームド・コンセントに際し
ては、患者の自己決定ないし自律そのものの尊重を重視すると同時に、患者の幸
福を促進するための手段としてのその機能も見失わないようにすることが大切で
あろう。
インフォームド・コンセントの働きとして、人権の尊重と、医療者―患者間の
信頼関係の構築のいずれが大切な目的かということが問われることがある。上述
のような二重の機能をインフォームド・コンセントに認めるならば、これについ
て以下のように考えられるのではないか。つまり、自律尊重は人間だけがもちう
る自由を尊重することであり、よって人権尊重という意味をもつ。また自律尊重
という働きと幸福促進の補助的原理といsての働きは全体として、医療者と患者
の信頼関係の構築という目的に役立つ。両者は背反的なものと考える必要はなく、
インフォームド・コンセントにおいて同時に実現されるげき目的というべきであ
ろう。

2.説明と対話を通じての信頼関係の構築

このように、自律そのものを目的とする同時に、最大幸福(傷病が治癒する、
改善するなど)実現の補助的原理としての働きももつようなインフォームド・コ
ンセントはどのようにしたら可能だろうか。自律そのもの目的とすれば愚かな決
定に向かう恐れがあり、他方、補助手段としてインフォームド・コンセントを利
用すれば、それは患者の自律が損なわれる危険があるのではないか。この二つの
要求を両立させることは困難ではないだろうか。それを両立させるものは、対話
としてのインフォームド・コンセントではないだろうか。
かつてインフォームド・コンセントは、医師が説明を行い、患者がそれに同意
するという意味であった。このようなインフォームド・コンセントは、医療者中
心のものであったといえる。しかし現代、とくに法学的な視点からは、インフォー
ムド・コンセントのコンセント(同意)は、単なる同意ではなく、患者の権利と
理解され、患者が自分で自己自身のことを決めるという意味、つまり患者の自己
決定権のことであると理解されるようになった。これによって、医師の説明は患
者の自己決定のための前提条件として扱われるようになり、インフォームド・コ
ンセントの意味は、患者中心のものになったと理解される。
(大城孟「説明から会話(対話)へ(その1)」『日本醫事新報』No.4184(2004
年))
(なお前掲のように、1997年の医療法改正により、医療者は適切な説明を行い、
医療を受ける者の理解を得るよう努力する義務を負うことが明記された)
とはいえ、日本の現状におけるインフォームド・コンセントは、そのような理
念とは裏腹に、形骸化も懸念される状況にある。つまり患者の同意を形式的にと
りつけるための誘導型のインフォームド・コンセントも少なくないといわれてい
る。では患者が理解して自己決定し、それにもかかわらずできる限り愚行に陥る
ことなく、医療者が良質の医療を提供できるためには、どんなことが求められる
だろうか。
インフォームド・コンセントにおける医療者の説明については、とくに法学の
立場から、医師の責任の問題を念頭において、いくつかの説が出されている。一
般の医師であれば誰もがするであろう説明をすべきであるとする医師基準説、ふ
つうの患者が合理的な判断ができると前提して、患者が必要とする情報をすべて
提供すべしとする合理的患者説、さらに、個々の患者に説明が理解できたか否か
の確認を求める具体的患者説、がある。(小坂康治「インフォームド・コンセン
トにおける法と倫理」)インフォームド・コンセントが、単なる医療者側の説明
の問題ではなく、患者が理解し自己決定することに主眼がおかれるなら、具体的
患者説の立場に立つことがもっとも妥当だと思われる。(『医学哲学・医学倫理』
第20号(2002年)所収)
このように、権利―義務関係を意識しつつ、こうして医療側の説明の改善を目
指すことは、十分意義を有するものであるが、ただそうした努力にもかかわらず、
冒頭の調査結果のように、患者は医療者の説明を不足と感じ、自己決定の可能性
が十分与えられていないと感じている者が少なくない。医療不信は減っていない。
患者の権利意識、知識・情報の増加や医療事故の頻発、という背景もあるが、や
はりここで求められているものは、医療者と患者のあいだの一層の信頼関係であ
ると思われる。十分な説明はたしかに信頼関係を築くための前提であるが、さら
に求められるものがあるとすれば何か。
説明をさらに対話へ発展させ、双方向的な意思の疎通をはかることが必要であ
ると考えられる。医療者と患者とが、協力して病気に立ち向かうという姿勢が必
要であり、その上でこそ、患者による十分な理解や共感、また自己決定しつつ、
なおかつ患者自身の最善の利益(自己決定そのものではない)を得るという可能
性が、高まると思われる。

所属:川崎市立看護短期大学

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荒川報告要旨

患者への日常的、個別的、文書による診療情報提供

―患者と医師の双方における負担と利益、患者の自己決定への有用性を考えるー

 

荒川迪生1、荒川淳子1、吉田麗己2、遠渡豊寛3、吉田達彦4

岐阜かかりつけ医グループ(荒川医院1、吉田医院2、遠渡内科3

岐阜市薬剤師会 会営 ぎふ西調剤薬局4

 

はじめに

電子機器による診療記録の保存能力は飛躍的であるが、診療録自体は依然として粗雑で断片的で、整理が遅滞している。診療情報整理の基本のひとつは、初診時からの診療を概括し、実用的で適切に要件を満たした診療情報の要約(サマリー)作成である。これはかかりつけ医自身の個人内診療の深化を図る垂直的分析である。もうひとつは、かかりつけ医と患者・対診医・薬剤師・医療スタッフ間で、診療情報のサマリーを共有することである。これは関係者個人間の診療コミュニケーションを図る水平的分析である。とりわけ、患者中心の診療情報共有が、患者の自己決定に貢献すると考える。

目的

本報告の目的は「外来診療の要約」の様式を標準化し、年1回更新する「年刊サマリー」を患者に提供し、併せて健康管理手帳に診察所見、各種検査所見を網羅した診療内容を開示することの実用性と有用性を分析することである

方法

外来患者を対象に、初診時からの全経過の主要部分を抜粋し、Microsoft Excel 2010 ワークシートを用い、1年に1回要約(以下、年刊サマリー)した。年刊サマリーの様式は試行錯誤した。今回は2011年11月から年刊サマリー作成を開始した。患者には健康管理手帳を配布し、年刊サマリー、受診時身体所見、血液検査結果等を記載、貼付した。アンケート調査により、年刊サマリーと健康管理手帳の実態を評価した(2012年2月28日~3月6日間の“連続”の定期受診患者114名)。

結果

2012年4月末で、年刊サマリー完了分は約300名、未完了分は約200名であった。年刊サマリーには傷病名欄、処方欄、検体検査欄、生体検査欄、画像診断欄、診療計画欄を設け、各欄には所見内容、傷病開始日、検査・処方年月日を記載した。薬剤の開始、変更、終了などでは、その経緯・理由を略記した。

年刊サマリーは診療全経過を実用的に明示するために、 A4判1ページに収めた。年刊サマリーの作成は、1件当たり新規分で30分、継続分で20分であった。記録内容に不備がある場合には、原記録の確認に時間を要した。

アンケート結果は、年齢構成(歳代;名):30;2、40;5、50;23、50;44、70;24、80;14、90;2、健康管理手帳を見る者は82名(72%)、病気把握に有用とする者は93名(87%)、今後も希望する者は101名(89%)であった。

考察

年刊サマリーは診療の質向上、患者の信頼増強に有用であった。

健康管理手帳の活用により、患者中心の医療、日常的診療情報提供ができた。対診の際には所定の診療情報提供書に加えて年刊サマリーを添付した。院内医療関係者は年刊サマリーにより、代診・対診・看護・調剤・窓口業務(明細書や薬剤情報提供書関連)を的確に実施できた。

アンケートに記載された管理手帳の有用性を列記する:①自主的自己管理価値:いつ、どんな検査、どんな薬を飲んでいたかなど確認できる。病気の内容、体の状態、血圧・検査データの推移がわかる。自分なりに理解し、忘れないよう、記録しておいた方がよい。自分の病歴等が正確に記録されているものがあることは大切。②伝達改善価値:初めての診察では、自分が説明するよりも手帳を見せた方がよい。薬剤の確認、重複防止が可能である。他の病院へ行った時に見せられる。自分の説明が要らない。救急時自分の口で言えない場合に見せられる。他医受診時説明しやすいし、理解してもらえる、情報の伝達が速い。③医療の信頼安心価値:役に立つことがありそう。何かあったらすぐ処置できると思うので、持っていると安心。自分で管理できないので安心。

結論

  年刊サマリーは労力と時間のかかる作業ではあるが、かかりつけ医は自身の診療補強や修正ができ、対診医等に対する診療情報の伝達が改善できる。院内医療関係者は診療内容を確認でき、分担業務を遂行できる。健康管理手帳を介した診療開示により、患者自身は診療内容を確認でき、かかりつけ医の信頼が増す。アンケート結果からは、患者が自主的に自己管理する姿勢、自己決定の強化が推測されるものの、かかりつけ医の自主的サービスに依存する面も大きいと推測される。

参考文献

荒川迪生、川出靖彦、吉田麗己、他:かかりつけ医における外来診療情報の年刊サマリー

―診療の質を高め、情報を共有する― 医療情報学 Vol32、No.1 2012.5.7 印刷中

関東医学哲学・倫理学会発表:H24.6.2

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