2012年度の総合部会

2012年度の年間テーマ:高齢者医療と自己決定


◆3月例会(第221回総合部会例会)

日時:3月2日(土) 15:00~17:30
会場:上智大学 2号館6階ドイツ語学科会議室

演者:有馬 斉 氏(司会 村松 聡 氏)
演題:人格の要求する敬意は自殺幇助や安楽死と矛盾するか
要旨:
終末期医療の倫理について報告する。中でも非帰結主義を前提に積極的安楽
死(および自殺幇助)正当化論を展開したFrances KammとJeff McMahanの議
論に注目する。
KammやMcMahanを含む非帰結主義者の多くは、人の生命を破壊することの
是非を論じる際、(a)その生命が主体にもたらしている利益や害の価値と、(b)そ
の生命の主体がそれが人格であるということのために有する価値とを区別する。
そこで、人格を相手とする場合はそれにふさわしい行為規範があり、これは当の
人格に及ぶ利益や害の量によってだけ決まることではないと主張する。とくに、
人格の生命を破壊することは、仮にそうすることが殺される本人や周囲の人々
の利益に叶うとしても許容されない場合があり、その根拠は殺される対象が人
格であるということにあるとされる。
KammとMcMahanはいずれもこの枠組を支持すると同時に、実際にこれを応
用して安楽死・尊厳死の是非を論じている。また、人格が対象であってもなお
積極的安楽死と自殺幇助の正当化できる場合があると結論する。
本報告ではかれらの議論の強度を検討する。また、帰結主義者(功利主義者)
による積極的安楽死正当化論との比較を通して、かれらの立論の特徴と、終
末期医療の倫理をめぐる論争におけるその意義が明らかになるようにしたい。
*主な参考文献:①F. Kamm, “Physician-Assisted Suicide, Euthanasia,
and Intending Death,” in M.P. Batting et al. eds., Physician Assisted Suicide:
Expanding the Debate, Routledge, 1998、②J. McMahan, The Ethics of Killing,
OUP, 2002

所属:横浜市立大学国際総合科学部
専門:哲学、倫理学

参加費:300円


◆2月例会(第220回総合部会例会)

日時:2月10日(日) 15:00~17:30
会場:上智大学 2号館6階ドイツ語学科会議室
演者:岩倉 孝明 氏(司会 宮嶋 俊一 氏)
演題:医療における隠喩使用の可能性
要旨
かつて「病い」は文学、美術等における有力なテーマであった。これに対し、
スーザン・ソンタグが「隠喩としての病い」他の著作で、病いを隠喩として語る
ことを厳しく批判したことはよく知られている。結核、癌、エイズなどの病いに
ついて、それが純粋に医学的に意味する以上の含意をこめて語ることを批判した
のである。
しかしこのように超然としていることは、常に可能というわけではない。また
後にソンタグ自身が認めた通り、隠喩は私たちの言語に深く根を下ろしており、
それを言語から取り去ることは困難である。さらに隠喩は巧みに使えば、ポジティ
ブな力をもちうる。それならば隠喩と「うまくつき合う」道を考えることが賢明
であろう。
結論を先取りすれば、隠喩の使用は、医師・医療者の物語と患者の二つの物語
の間の調停を行うための一つの有効な言語的仕組みになりうるのではないか。た
とえば医師が、患者の物語を理解した上で、巧みな仕方で病いその他について隠
喩を用いるとしたら、医師は医師としての物語を維持しつつも、患者の病いにつ
いて、患者にも受け入れられうる語りを行うことができるのではないか。
隠喩は、ものの見方(病いの見方)を構成し直す力がある。また隠喩は、聴者
に対して、文脈・状況から話者の意図(意味)を理解することを要求する。しか
しその解釈には、一定の開放性、つまり聴者の主体性が生きるような解釈の自由
の余地を残している。その解釈の可能性の振幅の大きさの故に、隠喩はネガティ
ブにもポジティブにも、聴者に少なからぬ影響を与え得る。これは話者と聴者に、
想像力の活動を許し、科学(生物医学等)の枠組みに沿ったな言語使用からの一
定の解放を認めることにつながる。
こうした隠喩使用の特性を考えながら、医療者と患者の物語が交差する場面で、
隠喩がどんな力や意義をもちうるか。この発表ではこうした点をめぐって考察し
てみたい。

所属:川崎市立看護短期大学
専門:生命倫理学・哲学

参加費:300円


◆1月例会(第219回総合部会例会)

日時:1月12日(土) 15:00~17:30
会場:上智大学 2号館6階ドイツ語学科会議室

演者:兼松 誠 氏(司会:山本 剛史 氏)
演題:ハンス・ヨナスの責任倫理の射程--倫理学の方法論および限界について
要旨:
ハンス・ヨナスは生命倫理学や環境倫理学といった応用倫理学の分野でしばし
ば言及されてきた。それでは彼の主張した「責任の倫理」は応用的な倫理なのだ
ろうか?彼の注目のされ方とは対照的に、彼の哲学は形而上学や宇宙論を常に志
向していた。そして彼は形而上学的もしくは宇宙論的根底から倫理学が切り離さ
れていることに危機意識を持っていた。すなわち、彼の課題の一つは倫理学をニ
ヒリズムから救う事であったと言ってよい。彼はそれをどのように論じようとし
たのかを、今回の発表では議論したい。特に、倫理学の方法論としての責任、そ
して倫理学の限界としての責任という観点から、ヨナスの責任倫理学の奥行きを
提示できたらと考えている。倫理学の限界という後者の観点は、生命倫理学批判
として重要な意味を持っているはずである。

専門:倫理学
所属:聖学院大学アメリカ・ヨーロッパ文化学研究科博士後期課程

参加費:300円


◆12月例会(第218回総合部会例会)

日時:12月1日(土)15:00~17:30
会場:東洋大学 白山校舎6306教室(6号館3階)

演者:長島 隆 氏(司会:小松 奈美子 氏)
演題:<遠隔医療>の現在-個人情報保護法成立後の展開とその問題点
要旨:
すでによく知られているように、医療情報に関わる問題として「電子カルテ」の現場への導入、「遠隔医療」の展開など、医療情報をめぐる動きは急展開してい る。本発表では、「遠隔医療」に絞って問題を解明していくことにしたい。問題は、この医療情報は「インティミットな情報」であり、この保護に関してはきわ めて慎重に行われなければならないことである。2003年に日本においてもグローバルな動きと連動して、「個人情報保護法」が制定された。この法制定に よって、状況は変わったのかどうか、それが大きな問題となる。
とりわけ、E-Mailの安全性は、以前と変わらない状況にあり、ドイツでは、医療情報に関して、メイルを利用する際のガイドラインが10年以上前に制定 されている 。だが、日本では、このようなメール利用のためのガイドラインさえも制定されておらず、「暗号化」という技術的な防衛に任されているだけであるように見え る。
今日、「個人情報保護法」によって、「遠隔医療」は急速に普及される動きが見えるが、果たしてそれで防衛可能であるかどうか。
本発表では、急速に進展させられている「遠隔医療」計画が、はたして、患者個々人の「医療情報」の保護という観点から見て、「個人情報保護法」制定という新しい段階で、それにふさわしいヴァージョンアップがなされているのかどうか、この点の分析を行うことにしたい。

専門:哲学、ドイツ観念論における自然哲学(ヘーゲル、シェリングを中心とする)および社会哲学の研究
所属:東洋大学文学部哲学科教授 東京薬科大学客員教授

参加費:300円


◆11月例会(第217回総合部会例会)

日時:11月3日(土)15:00~17:30
会場:上智大学2号館6階 ドイツ語学科会議室

〇第1報告

演者:冲永 隆子 氏(司会:五十子 敬子 氏)
演題:小児脳死臓器移植の倫理的課題
要旨:
本発表では、1)わが国の臓器移植法改正(2010年7月施行)における議論や、2)国内初の15歳未満児童からの臓器摘出(2011年4月)、また富山 の6歳未満児童からの臓器摘出(2012年6月)での議論を通じて、3)「犠牲を伴う医療“Medical Care involving sacrifice”」のあり方を問い、「思いやりの医療“Compassionate Medical Care”」とは何かを考える。
1)周知のように、今回の法改正では、15歳以上というドナーの年齢制限の撤廃によって、家族の書面により、15歳未満児童でも臓器提供が可能になった。 脳死の子どもに向けられる法改正前からの懸念は、「長期脳死」の子どもの存在、被虐待児童からの臓器提供の可能性等であるが、各種の団体の国会への働きか けは力が及ばず、最終的に脳死の子どもを法的に「死体」とみなす条文を含む臓器移植法が可決された。
2)法施行から1年経った2011年4月12日に国内初の15歳未満児童(報道では「交通事故による死」)からの臓器提供が報道されたが、実際にドナー少 年の死は「交通事故による死」ではなく、「列車への飛び込み自殺」によるものだった。2012年6月の6歳未満児童からの臓器提供に関するマスコミ報道に おいても、死因は「事故」だとされている。法改正前から懸念されていた倫理問題が現実のものとなり、小児移植医療の背後に潜む闇の部分が浮き彫りとなっ た。
3)悲しみの中で臓器提供を決断したドナー両親の思いと、移植しか治療法のないレシピエントとその家族の苦しみを受け止めながらも、死因が追求されずに 「思いやりの医療」として讃美される現状について、今一度考えていきたい。「救われるいのち」のために「棄てられるいのち」が必然となる、犠牲を伴う脳死 移植の現状と、そこにかかわる隠された弱者(脳死の子どもとその家族)の痛みや苦悩に多くの人々がどう向き合っていくのか。本発表では、小児脳死移植の倫 理的課題を検討し、そこにおけるいのちの矛盾とその苦悩を私たちがどう受け止め、支えていくのかの議論を共有していきたい。

専門:生命倫理学
所属:帝京大学医療技術学部

〇第2報告

演者:石田 安実 氏(司会:五十子 敬子 氏)
演題:インフォームド・コンセントにおける「緩やかなパターナリズム」は可能か
要旨:
インフォームド・コンセントに対するアプローチとして、近年では、「情報開示モデル」ではなく「会話モデル」がよしとされる。前者の一方向コミュニケー ションでは、患者の希望・価値観・自己決定などが抑圧されがちになり、それとは対照的に、後者のモデルの双方向コミュニケーションにおいては、インフォー ムド・コンセントにとって重要な患者の「自律性」がより尊重される。一方向コミュニケーションから双方向コミュニケーションへ、患者の「自律性」の抑圧か ら尊重へという流れ、それは確かに好ましいものであろう。
しかし、双方向コミュニケーションの「会話モデル」は、医師・患者の立場間の対等的・対称的関係を保証するものではない。むしろ、医師-患者間関係につい てのさまざまな分析は、その関係が本質的に非対称であることを明らかにする。つまり、「会話モデル」によって双方向コミュニケーションが確保されても、そ の関係の非対称性は避けられない。また、「会話モデル」は、実際の治療行為決定の文脈や裁判での再現性を考慮すると、実用的であるとは言い難い側面もあ る。本発表は、医師-患者間の本質的な非対称性を踏まえ、しかも現実の適用においてより実用的なモデルとして、「緩やかなパターナリズム」モデルを提示す る。それは、医療提供者側が患者の希望・価値観・背景を完全には知り得ないということを認める点で「パターナリズム」であり、医療提供者側が情報の開示に おいて患者側からのいかなる質問にもオープンでなくてはならないという点で、それは「緩やか」なのである。

専門:哲学(特に、心の哲学、認識論)、倫理学
所属:横浜市立大学非常勤講師


◆10月例会(第216回総合部会例会)

日時:10月6日(土)15:00~17:30
会場:上智大学2号館6階 ドイツ語学科会議室

演者:田村 京子 氏(司会:黒須 三惠 氏)
演題:生体臓器移植の倫理

要旨:
本発表の目的は、生体臓器移植が医療として倫理的に正当であると認められるための要件を明確にすることである。
一般に、生体臓器移植は脳死・死体臓器移植ができないなど「やむをえない場合」に例外的補完的に行われるものと位置づけられている。だが、日本では、移植 医療が始まって以来、一貫して、脳死・死体からの提供臓器のよる移植件数より、生体移植の方が圧倒的に多い(脳死からの提供でなければ移植されない心臓を 除く)。脳死・死体臓器は本人あるいは家族の意思による人道的精神に基づく非指定提供であり、一旦社会へ提供され、社会的資源とみなされて日本臓器移植 ネットワークにより公平に配分されるのに対して、生体臓器提供は本人の意思による家族への指定提供であり、実施は各医療機関にまかされている。脳死・死体 移植については脳死を人の死とみなすかどうかを中心に論じられ法も制定されたが、これに比較すると、生体臓器移植は家族内の私的な出来事であるためか、あ まり論じられてこなかった。
発表では、臓器売買の禁止を前提として、以下の3つの要件について考察する。
1. 生体臓器提供は義務を超えた行為であること。
2. 生体臓器提供はドナー候補者の自由意思による提供でなければならないこと。そのさい、家族内での提供圧力に抗して、いかに自由な意思決定ができるかを考える。
3. レシピエントの利益とドナーの利益が、レシピエントの不利益とドナーの不利益を凌駕するという条件を満たしていること。

専門:倫理学
所属:昭和大学富士吉田教育部


◆9月例会(第215回総合部会例会)

日時:9月1日(土)14:30~16:30
会場:上智大学2号館6階 ドイツ語学科会議室

演者:近藤 弘美 氏(司会:石田 安実 氏)
演題:リベラル優生学における問題―他者危害の原則の適用に関して―

要旨:
本発表では、近年急速な発展を遂げている遺伝子技術の使用に関する一つの立場を考察する。その立場とはリベラル優生学(または新優生学)と呼ばれるもので ある。リベラル優生学は、親が自ら進んで自分の子供の遺伝子操作をすることは基本的に許されると主張する。このリベラル優生学に対して、他者危害の原則の 観点から検討を加えたい。
まず、リベラル優生学の歴史とその特徴を概説する。リベラル優生学は、1990年代後半からヒトゲノム計画の実施や生殖技術の向上を背景に現れた。旧来の 優生学との比較を踏まえて、優生学とリベラル優生学の違いなどを考察しながら、リベラル優生学の特徴を述べる。次に、リベラル優生学を支持する生命倫理学 者であるニコラス・エイガーの議論を取り上げる。エイガーは、他者危害の原則を前提とした議論を行っている。すなわち、生まれてくる子供のライフ・プラン の選択を妨げない限り、基本的に親が子供の遺伝子操作をすることは道徳的に許されると彼は論じている。このエイガーの主張は、一定の制約を設けた上での親 の選択による子供の遺伝子操作を認めており、穏健な主張だと言えるかもしれない。しかし、その主張にも問題があることを最後に指摘したい。その問題とは、 ①生まれてくる子供に行う遺伝子操作の是非を議論する際には、他者危害の原則が適用できないこと、②他者危害の原則が正しいと言えるために根拠となる議論 が欠けていることの二点である。

専門:倫理学、生命倫理学
所属:お茶の水女子大学


◆7月例会(第214回総合部会例会)

日時:7月7日(土)15:30~17:30
会場:上智大学2号館6階 ドイツ語学科会議室

演者:小出 泰士 氏(司会 水野 俊誠 氏)
演題:フランスの終末期医療について

要旨:
フランスでも1960年代にはすでに、終末期医療の問題が社会の関心事となっていた。しかし、1994年のいわゆる生命倫理3法においては、終末期医療に 関しては立法化されなかった。そのため、終末期医療については、生命倫理のそれ以外の問題とは別個に検討され、立法化された。
1999年の「緩和ケアを受ける権利を保証するための法律477号」において、緩和ケアと寄り添いを受ける患者の権利が認められた。2002年の「患者の 諸権利及び保健制度の質に関する法律303号」においては、「いかなる医療行為もいかなる治療も、患者の情報を与えられた上での自由な同意がなければ実施 することはできないこと」が規定された。つまり、患者が治療を拒否または中止する意思を示した場合、たとえそのことが患者の生命を危険にさらす可能性が あっても、「医師は患者の意思を尊重しなければならない」ことが規定された。また、成人の患者は、自分の意思を表明できなくなったり必要な情報を受け取る ことができなくなったりした場合に備えて、「信任された代理人」を指名することができるようになった。
そうした経緯を経て、2005年に、フランスの尊厳死法に当たる「患者の諸権利及び生命の終わりに関する法律370号」が制定された。フランスでは、患者 の意思に基づく治療中止による消極的安楽死が容認された。しかし、近隣のオランダ、ベルギーなどとは異なり、積極的安楽死は認められていない。故意に患者 の生命を短縮することは、医師の基本的倫理原則に反するとの考えからである。そのかわり、緩和ケアを受けることを患者の権利として認め、苦痛をはじめ、患 者の終末期の状態をコントロールすることができれば、積極的安楽死を要請するような状況はかなり回避できるのではないかと考えている。
発表では、以上のようなフランスの終末期医療に対する考え方を詳しく紹介し、それについて検討したい。

参考文献:拙論「第7章 仏語圏の生命倫理」『シリーズ生命倫理学 第1巻』
(丸善、2012年)

専門:倫理学、生命倫理学
所属:芝浦工業大学


◆6月例会(第213回総合部会例会)

日時:6月2日(土)15:30~17:30
会場:上智大学2号館6階 ドイツ語学科会議室

演者:荒川 迪生 氏(司会:今井 道夫 氏)
演題:患者への日常的、個別的、文書による診療情報提供
    ―患者と医師の双方における負担と利益、患者の自己決定への有用性を考える-
要旨:
電子機器による診療記録の保存能力は飛躍的であるが、診療録自体は依然として粗雑で断片的で、整理が遅滞している。診療情報整理の基本のひとつは、初診 時からの診療を概括し、実用的で適切に要件を満たした診療情報の要約(サマリー)作成である。これはかかりつけ医自身の個人内診療の深化を図る垂直的分析 である。もうひとつは、かかりつけ医と患者・対診医・薬剤師・医療スタッフ間で、診療情報のサマリーを共有することである。これは関係者個人間の診療コ ミュニケーションを図る水平的分析である。とりわけ、患者中心の診療情報共有が、患者の自己決定に貢献すると考える。
本報告の目的は「外来診療の要約」の様式を標準化し、年1回更新する「年刊サマリー」を患者に提供し、併せて健康管理手帳に診察所見、各種検査所見を網羅した診療内容を開示することの実用性と有用性を分析することである。
年刊サマリーは労力と時間のかかる作業ではあるが、かかりつけ医は自身の診療補強や修正ができ、対診医等に対する診療情報の伝達が改善できる。院内医療 関係者は診療内容を確認でき、分担業務を遂行できる。健康管理手帳を介した診療開示により、患者自身は診療内容を確認でき、かかりつけ医の信頼が増す。ア ンケート結果からは、患者が自主的に自己管理する姿勢、自己決定の強化が推測されるものの、かかりつけ医の自主的サービスに依存する面も大きいと推測され る。(要旨全文資料

所属: 荒川医院副院長

参加費:300円


◆5月例会(第212回総合部会例会)

日時:5月13日(日)15:00~17:30
会場:上智大学2号館6階 ドイツ語学科会議室

演者:小山 千加代 氏(司会:小館 貴幸 氏)
演題:高齢者の看取り:
    終末期における医療・看護の実情と高齢者の自己決定に関する諸問題
要旨:
今年の関東支部会のテーマは「高齢者医療と自己決定」に決定されたと伺って おります。今回は、高齢者医療の中でも特に終末期医療と看護について取り上げ、 考えてみたいと思います。
5人に1人が65歳以上高齢者で、年間死亡者数が出生数を上回るようになった現 在、高齢者の看取りの問題は深刻さを増してきています。特に高齢者の場合には、 長い経過をたどって死に至るため、その間の看護や介護をどこでどのように受け るか、医療処置をどこまで受けるかという点では、高齢者の自己決定が大切であ りながら、高齢者の希望通りにはいかないことが少なくありません。
高齢者の終末期は、がん等の患者とは異なり、余命の予測が難しく、日本老年 医学会(2012)においても「近い将来死が不可避となった状態」と、その期間につ いてあいまいな表現をしています。しかし、基本的には、病状が悪化の一途をた どり、病気と老化で食事摂取も困難になり、ベッド上で身動きも出来ずに横たわっ ている患者の様子をみると、医師も看護師も「終末期」ということを意識するよ うになりましょう。
その際、高齢者本人が看取りの場所として選択できるのは、病院か、福祉施設 か、自宅かです。病院では早期退院を目指していますから、入院中の高齢者は経 管栄養や高カロリー輸液で延命が図られ、施設や自宅への退院を進められること が一般的でしょう。福祉施設は医療施設ではありませんから施設利用者が医療処 置を希望する場合には、病院へ入院することになります。しかし、病院に受け入 れを拒否されることもあります。最期まで自宅で過ごしたいと考えている人は少 なくないと思いますが、それを実現するためには地域医療やケアシステムの充実 が不可欠となります。
今回は、高齢者が最期を迎える場所として、病院、福祉施設、自宅という3つ を考えて、看取りの際に行われる医療と看護の実情について整理し、そこでの高 齢者の自己決定に関する諸問題を提起したいと思います。

所属:東京女子医科大学大学院看護学研究科 講師
専門:看護学、死生学

参加費:300円


◆4月例会(第211回総合部会例会)

日時:4月1日(日)16:10~17:30
会場:上智大学2号館6階 ドイツ語学科会議室

演者:朝倉輝一氏(総合部会長)(司会:小出泰士氏)
演題:2012年度年間テーマ:「高齢者医療と自己決定」(趣意書)報告
要旨:
高齢社会から次第に超高齢社会を迎えつつある現在、高齢者の医療においてこ れまで以上に様々な問題が浮上してきている。例えば、胃ろうの造設や継続の是 非、end of life careに見られるような末期ガンだけに限定されない終末期医療 と尊厳死や安楽死の是非、あるいはアンチ・エイジングやマインドリーディング のような技術を認知症患者などに応用する問題などである。
老年医学会を中心とした胃ろうに関するガイドライン(案)の作成、あるいは 認知症のターミナルケアのシンポジウムなどが昨年行われたことは、こうした問 題が喫緊の問題として広く社会的に顕在化しているという認識があるからではな いだろうか。
また、この3月、超党派の国会議員で作る尊厳死法制化を考える議員連盟が、 終末期患者が延命治療を望まない場合、人工呼吸器装置など延命阻止を医師がし なくても法的責任を免責される法案を国会に提出した(予定)。
他方、この尊厳死法制化の動きに対して、障害者団体などが、障害や重い病気 であっても必要な医療や介護を受けながら、その人らしい尊厳ある生を保証する ことこそが国の責任であるという立場から反対や懸念する声を上げている。  このいわゆる「尊厳死法案」提出の背景には、高齢者医療における本人の意思 確認の困難さと自己決定権の尊重という問題があることは間違いない。
これらの問題は、いわゆる医療分野においてだけでなく、介護の分野も含めた 哲学・倫理や政策決定に関わる重要な問題である。かつてインフォームド・コン セント導入に際して、患者の自己決定に関する議論が広く交わされた。しかし、 今、我々は、もう一度、高齢社会における医療・介護の現状を踏まえて、自己決 定の問題を通して老人観を含む人間観や死生観、あるいは障害観も含めて考える べき時がきたのではないだろうか。

所属:東洋大学
専門:哲学・倫理学

参加費:300円


 

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